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この図は、山田慶児氏が梅園の条理学が最終的に破綻した証拠としてあげているものです。たしかに梅園の記述は地表の動植物を扱う
「小冊物部」では、いくらか無理を生じています。晩年、麻田剛立と議論して動物の内臓も「条理」的に出来ているはずだと強く主張し、
剛立もそれを確認しようとして動物の解剖を試みたりもしたのですが、条理的に内蔵を分類することには限界があると感じたようで、 # 何分にも、条理の義は先生にお任せ申しそうろう。 と、さじを投げた感じで二人の議論は終わっています。 私も「小冊」の「人部」「物部」を現代語訳しようとしましたが、途中で断念しました。その理由は、時代があまりにも違い すぎるために「人部」に書かれている人情の機微を察することが困難であること、「物部」の臓腑論に至っては、現代の解剖学 や生理学の精緻さには到底及ばないことが挙げられます。 ことに臓腑論は、安永三年に『解体新書』が出版された前後に書かれていますし、もともとが漢方医学の五臓六腑論に対する 批判として書かれていますから、現代人には分かりづらいのです。また、漢方の脾臓は、解体新書では膵臓になっており、 今日でも膵臓が使われています。 しかし、山田慶兒氏がこの図の空欄を条理学の破綻と見るのはいささか行き過ぎですし、中央公論社の日本の名著『三浦梅園』 の258頁の批判(というより皮肉)に至っては、もう少し謙虚になれないものかと思います。 生物の多様さをどこまでも条理によって分類しようとすることにはたしかに無理があります。しかし、梅園は、条理の客観的妥当性を 仮定にとどめています。この点は、末木剛博東京大学名誉教授(個人)が、梅園学会報第7号所収の論文「玄語の論理(一) その方法論」で 次のように書いています。 〔十一〕したがって世界のなかにあって世界を考えるのであるから、思考の必然性は世界の必然性でもある。したがって思考を 支配する法則は世界を支配する法則でもある。その限りで論理の客観性の仮定は仮定以上の強制力をもつはずであるとも考えられ よう。--しかしこの点は充分慎重に考えなくてはならぬ。 〔十三〕『玄語』では「條理ハ則チ天地ノ準ナリ」と言って、論理が世界を思考 する為の標準となり、しかもその標準の根拠は客観性を もつと考えて居る(「徴ハ天地ニアリ」)。その限りで論理の客観性の仮定は仮定以上の確実な原理であると考えて居るように見える。 しかし梅園は極めて慎重であって、決して軽率な 独断に陥りはしない。彼は論理的法則(「條理」)が世界認識の為の標準(「天地ノ準」) であると主張したのに並べて、その妥当性の限界をはっきりと自覚して次のように述べて居る。日く、 「我ハ造物者二非ズ。ナンゾ能ク條理ヲ盡サン。」(玄、例旨Z-[上]、P10、 b)。 このように、條理(論理的法則)の限界を認めるのであり、その限界のなかで、 條理は「天地ノ準」であると考えるのである。 したがって、梅園もまた論理的思考の客観性を仮定として認めて居るのであって、それ以上の独断的主張をして居るわけでは ないと言ってよい。 こういう慎重な推論に比べると、山田慶兒氏の、 どうやら二分法よりも少し複雑な思考法を駆使して狡猾な神の奸智の大海に、梅園の哲学の小舟は木の葉のように翻弄され、 あえなく難破してしまった。 条理がわかれば物はわかると豪語する、思弁的なあまりに思弁的な梅園は、ここにいたってみごとに、事実に復讐されたのである。 学習の弊もここに極まる、というべきか。 (前掲書 同頁) という批判は、いささか軽率さを感じます。論理と事実とは、常にせめぎ合うものです。せめぎ合うからこそ、 その洞察が進化するのです。 |