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ここから「小冊人部」の図になります。梅園は「地冊露部」を書いたところで世を去りました。これは安永四年本の図です。
全体として、安永本は、天明本に比べて図の完成度が足りないという印象を受けます。梅園は、得度して在家僧に成った後、
超絶的な高みに達しましたが、「本宗」と「地冊没部」「地冊露部」の三冊を完成させたところで力尽きました。 しかし、この三冊からだけでも梅園が超人的な天才だったことが伺われます。まるで宇宙人が人間に成ったかのような人物でした。 図の上の「天」は、これまで何度も書いた来たように存在の範疇や類型を意味します。下の「神」はその中の活動性を意味します。 しかし、人と天が横並びに成っている水平の線では、「人」は人間主観・人間主体・あるいは小生物をも含めたうえでの生活世界・環境世界を意味します。 「小冊人部」だから、人間のことだろうと思った大間違いです。梅園の言う「人」は、感覚器官によって世界を感じ取り、 みずからの力でみずからの世界を作り出す生き物のことです。この意味では、フッサールの「生活世界」や ユクスキュルの「環境世界」の先駆的業績ですが、梅園は彼らと違って、人間の意識や生物の環境世界を客観的な世界と ペアになるものと考えている点です。「小冊人部」に、 09756: 虫豸甲介。魚龍鳥獣。偕に同じく意を有す。則ち其の境や人なり。 と書かれているとおりです。「虫豸甲介」は「ちゅうちこうかい」と読みます。「偕に」は「ともに」と読みます。 地球中心の世界(体界)と太陽中心系(色界)を「孿胎」(れんたい)つまり双子とみなしたように、客観世界と主観世界・生物の環境世界を 双子と見るのが梅園の世界観です。人間の世界は生物の世界のひとつですから、必然的に人間の取り扱いが小さくなります。 これに対して西欧の自然科学は、梅園が「隠然の天」と言った物理法則によって自然を改変しようとするもので、人間と自然を楕円の ふたつの中心と考える視点が欠落しています。これは、西欧の哲学が結局は「自我哲学」でしかないことに由来します。 その典型がデカルトの「コギト」でした。「われ思う、故に我在り」は、端的に西欧の限界を示しています。一言で言えば、「我がまま哲学」です。 現代のグローバリズムに至っては「我がままサイコパス」としか言いようがありません。 |