
この図は「一神一物」のうちの「一神」の図です。「神」が「天」と「神」に分かれています。何度か書きましたが、この「天」は自然に存在するものの範疇や類型を意味します。梅園は「牛の天」「馬の天」というような表現をしています。この「天」を論じるのが「天冊」です。04066: 馬の天無くんば〉世豈に馬なる者有らんや〉 (豈に。あに) 04067: 牛の天無くんば》世豈に牛なる者有らんや》 04068: 已に各おの其の天を奉して立す。 04069: 各おの有する所の本根精英有り。以て其一を為す。 という文があります。プラトンならばイデア、アリストテレスなら形相と言ったことを、梅園は「天」と言っています。「例旨」に、 16141: 天冊の天は〉性なり〉鬱浡の活なり〉 ( 〉は黒傍点の代用記号) 16142: 地冊の地は》体なり》混淪の立なり》 ( 》は白傍点の代用記号)と書かれていますから、梅園の「天」は、造化生成の中で生まれてきた固有の類型を意味しているようです。ですから、この「天」そのものもわずかずつながら変化しますし、個体によっても違いがあります。ですから、生物に限って言えば「種」つまり、基本的類型であると言えます。 上半分の象限の「神」は、その基本的類型に応じた活動を示しています。鳥は空を飛び、魚は水中を泳ぎ、馬は速く走り、牛は重い荷物を運びます。蝶はひらひらと飛び、バッタは勢いよく跳びます。それらの活動は、生物以外でも同じです。青空は高く澄み渡り、白い雲は高く広がり、星は夜空に瞬きます。 これらはすべて「天」が定めた活動性です。『多賀墨卿君にこたふる書』に、 火は火の体をなして火のぴちつ きをなし、水は水の体を成して水のぴちつきをなし、 魚鳥、魚鳥の体にして魚鳥にぴちつき、天地、天地の体にして天地にぴちつく。と書かれています。「ぴちつく」というのは、今では使われない言葉ですが、ぴったりとそのものに成り切るという意味です。今まさにそのものとしての姿と活動性を現すことをそのように言ったのです。無限定的全体性である「玄なる一元気」が、限定された姿に成ったのが個々の自然的存在です。それらは、固有の類型と活動性を持っています。そして、その総体はふたたび無限定的全体性に戻ります。 |