21b.天象地質図一合(裏)(てんしょうちしつずいちごう) 校異なし
22a.没露隠見図一合(表)(ぼつろいんけんずいちごう)  校異なし

 右は「天象地質図一合」の裏の図です。表の図が存在するものとそれを存在させる場の関係の不並立性を書いているとすれば、この図は、存在するものを陰と陽の不並立性で分けています。陽の存在の典型は太陽と夜空の星々です。太陽は地上に明るさと温もりをもたらし、満天の星は漆黒の闇の中で明るく輝きます。夜空の星々と太陽は、天文現象・気象現象を起こし、地球環境の大規模構造を構成します。

 同図の左は陰の存在で水を含む「質」という文字があり形態を示す「体」という文字があります。つまり、水を内部に持つもので、形を持つものということですから、動物と植物がその代表です。むろん、川や海の水、土や石なども「質と体を持つ物」に入ります。

 「天象地質図一合」の次は、「没露隠見図一合」です。これも表裏でワンペアの一合図です。表の図には、上から「精」「没」「粗」「露」と書かれています。『玄語』の文の中にも「精没粗露」はよく出てきます。「精没」の典型的なものは、時間と空間です。運動の軌道も「精没」です。これに対して、時間と空間の中に存在して変化するものは、物質から成り立つ何らかの物体です。宇宙空間であれば、星が軌道を回ります。梅園の時代は、地球が丸いということに大きなインパクトを受けた時代で、どうやら地球が太陽を回っているようだということを麻田剛立と手紙でやり取りしていた時代でした。夜空の星々が太陽と同じように光り輝く天体だということにもようやく気づき始めた時代でした。

 この図に対応する文は『多賀墨卿君にこたふる書』にあります。

 さて右に蒼々として碧瑠璃のごとく、磅礴(ほうはく)として土石の填てるは、粗底の天地と申し候。気に精粗有りて、物を没露致し候(そうろう)。先ずこの精粗没露の態を弁じて、かく蒼々たるものを戴き、かく磅礴たるものを踏むことも見え申す可く、その精粗とは、粗なる処の気、其の体を没すといえども、猶お其の場所をもてり。精(せい)しき所の気は、物の内に居りて其の場所を持たず。

 この文の中の「気に精粗有りて、物を没露致し候」(粗は図では麁)が、この表の図にぴったり一致します。この図の上半分の白の象限が、「精」にして「没」したもの、つまり、時間・空間・運動軌道・方位などを意味しています。「粗底の天地」とは物質界として現れた自然界のことで、これらを「没部」で論じています。

 いま、「精没」の例として時間と空間を挙げましたが、『多賀墨卿君にこたふる書』にある次のような文を読みますと「鬱浡の神」(うつぼつのしん)も「精没」したものです。

 此の故に、鬱浡として活し、此の混淪を立てるものは物に体して其の体なし。没して天をなし、露して地をなす物は、畢竟、地中の天地にして、蒼々の天、歴々の曜、坱々たる無際涯に帰し、一大結物の地にして鬱浡たる神の成れる天に有せらる。

 この文の中の語と『玄語』の体系を対応させてみますと次のようになります。

 ・鬱浡として活し、此の混淪を立てるものは物に体して其の体なし ---これを論じるのが「天冊・活部」「天冊・立部」で、次のページの図(裏の図)

 ・没して天をなし、露して地をなす物は、畢竟、地中の天地にして ---これを論じるのが「地冊/没部」「地冊/露部」で、上の図(表の図)

 私は「鬱浡の神」(うつぼつのしん)を素粒子の活動だと思っています。「没露」や「隠見」で『玄語』を検索しますと興味深い文がたくさんヒットします。そのうちのひとつをご紹介します。私は検索用にはいまでも三浦黄鶴校訂版を主に使っていますが、あまり不自由はありません。

 422: 精没は則ち神の体なり〉
 423: 粗露は則ち物の体なり》
 424: 粗露すと雖も亦た没露す〉
 425: 精没すと雖も亦た隠見す》

以下、現代語訳しますと、

 422: 極微の存在となって姿が隠れるのは、発動因子の存在様態である。
 423: 粗大なものとなって姿を現わすのは、物質の存在様態である。
 424: 粗大で姿を露呈するとは言っても、非物質化して物体性を没するものとそこに姿を現すものがある。
 425: 極微の存在となって姿が隠れるとはいっても、活動性を現すものと現さないものがある。

という意味だと思っています。424:の「没露」は「地冊没部」と「地冊露部」、425:の「隠見」は「天冊立部」と「天冊活部」のことだと推測しています。

 「今」のことを「見時」とも言い、4933:に「見時は則ち衆神の遊ぶ所」という文がありますか。4933:は「今の一瞬は、もろもろの発動因子が活動するところ」という意味になりますが、今の一瞬はいわば全宇宙の表面ですから、この「衆神の遊ぶ所」つまり「もろもろの発動因子が活動する所」が、「神物剖析図」の第四象限つまり「天冊活部」になります。

 その活動に、自然界の諸存在の型あるいは類型を与えるのが、第一象限の「天冊立部」だと考えています。プラトンならイデア、アリストテレスなら形相と言ったものが成立する場です。

 私は「今」という一瞬は素粒子が自在に飛び回っている時間だと解釈しています。「見時」があれば「隠時」も無ければなりません。それが過去と未来になります。私達はいつも「見時」つまり「今」という一瞬の時間の中にいることになります。

 梅園は、届いていない「今」を「已往」(いおう)と言っています。『多賀墨卿君にこたふる書』にこの言葉があります。

 其の古き解に、言の病ありというは大物(だいぶつ)に六つと定まれる数もなく、古(いにしえ)(ゆ)き、今(いま)来たるという言も、是れより已往(いおう)をいい遺せり。

梅園らしく、この言葉の意味を説明していませんが、私は『不思議の国のトムキンス』の「のろい街」と同じことを考えていたのではないかと思っています。ただし、えどじだいのことですから、時速20キロで進むのは光ではなくて飛脚でした。飛脚は光ではないので相対論的な効果は起きません。

 しかし、たとえば、大阪の麻田剛立に送った手紙が大阪に向かっているとします。剛立に届けるまでの間、飛脚は「今」という時間を走っています。「今」という時間を運ぶことにおいては光と何も変わりません。梅園にとって手紙を出したことは「過去」の出来事です。剛立にとってはその手紙が届くのは未来の出来事です。その間の時間を「已往」(いおう)つまり既に往った時間と書いたのだと考えています。「今」という時間は、既に往った時間と、未だ到達していない時間に包まれています。

 梅園は未来から迎える時間を「将」と言い、今の一瞬を過ぎて時間が過去の流れに乗ることを「既」と言います。両者は排反事象であり不並立性を持っています。

 p|(q/r) に従って書けば、今|(将/既) となります。訓読では「将」は「将にせんとす」と読み、「既」は「既にする」と読みます。時空間を論じる「地冊/没部/天界之冊/宇宙」(=「物質界/非物質領域/存在と変化の場/空間と時間」)には、
 
 4957:  当遇の会、時は則ち今を為す〉
 4958:       事は則ち命を成す》         (事=事象。命=時間との遭遇を避けられないこと。)
 4959:  今の既に過ぎたるを〉前(ぜん)と曰う〉      (「前」は過去のこと。三日前、三年前、三万年前、など)
 4960:  今の未だ及ばざるを》後(ご )と曰う》      (「後」は未来のこと。三日後、三年後、三万年後、など)
 4961:  送迎の囿(ゆう)する所を除けば、則ち均しく今なり。(「囿」は囲うこと。)

と書かれています。今あるものを、我々は過去や未来というファンクションで囲って見ています。そのファンクションを外せば、すべて今の一瞬に存在することを意味しています。数万年前の化石であっても、今の一瞬に存在します。その化石にとっての数万年も、今の一瞬の持続でした。

 こういうことから推測すると、飛脚も化石も「粗にして露したもの」ですが、それらが経過した時間や移動した空間などは「精にして没したもの」です。飛脚の命も使命感も「精にして没したもの」です。「精」と「粗」は排反事象であり不並立性を持っています。「没」と「露」も排反事象であり不並立性を持っています。『玄語』という本は、自然界のあらゆる構成要素を、不並立性を基準にして分類し、その写像を作った書物です。ですから、ヴィトゲンシュタインが着想した実在の論理的映像の思想は、江戸時代の日本で既に書かれていたと私は考えています。そういう観点から『玄語』を読んだ人は私以外にはひとりも居りません。
 
参考図:三浦梅園が考えた"Fractal Holonic Dual Path System"と不並立性による地球環境の構成要素の配置
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