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次のページには「天神天地図」と「神物剖析図」があります。「天神天地図」は「神物剖析図」の第二円までを一つの図にしたものです。「神物剖析図」には、 天神は乃ち天冊に説く所 天地は乃ち地冊に説く所 と書かれています。「乃ち」は「すなわち」と読みます。「天冊」は「活部」と「立部」の両部に分かれます。「地冊」は「没部」と「露部」の両部に分かれます。下の体系図を見ますと、「本宗」の下に「天冊」と「地冊」が属し、「天冊」の下に「活部」と「立部」の両部、「地冊」の下に「没部」と「露部」の両部が属していることがわかります。つまり、この図が判れば、地上の諸存在を除けば、『玄語』は概略わかったことになります。以下、簡単に『玄語』の大規模構造の体系を説明します。右は「小冊」つまり小規模構造の部の体系です。 ![]() ![]() ![]() 本宗 ・・・総論 天冊活部・・・自然の諸範疇と範疇内の活動 天冊立部・・・自然の同一性と恒常性(動的平衡) 地冊没部・・・自然界の運動の基本形態と時間と空間 地冊露部・・・天体論・天球論・地球論・気象論 小冊人部・・・地上に存在する環境世界の主体(環世界主体:動物と人類) 小冊物部・・・地上に存在する動植物および鉱物類 例旨 ・・・凡例 こういうふうに現代日本語に訳すと分かりやすくなりますが、訳さないと何のことか判りません。現代日本語は、明治維新以降に主に英語の翻訳語として作られた人工言語です。日本国で自然発生した言語ではありません。無論、漢文も自然発生した日本語ではありません。その名の通りあくまでも中国の漢の時代の文ですから、中国の古文です。それを返り点と送り仮名で動詞が後ろに来る日本語の文法に巧みに取り入れたものです。返り点と送り仮名は、後藤芝山(1721-1782)が定めた後藤点が広く使われていました。江戸時代の学者は学術用語として漢文で本を書いていましたが、梅園は独自の訓点法を用いて、二行連(二行一対形式)で『玄語』全編を書いています。この梅園の訓点法に従って『玄語』の記述法を解明して出版したのは、私が編集した『玄語』(上下二巻)だけです。これは、三浦梅園資料館の開館記念事業の一環として出版されました。他にはありません。 梅園が「神物剖析図」と「天神天地図」を分けて書いた理由は明確にはわかりませんが、「天神天地図」には右端に「行宙」、左端に「居宇」と書かれていることから、「神物剖析図」の右半分が「行宙」の象限、左半分が「居宇」の象限であることを明確に示すために敢えて「天神天地図」を描いたものと思われます。「行宙」は時間の中を行くという意味です。「居宇」は空間の中に存在する、という意味です。 「天神」の「天」は、範疇(カテゴリー)のことです。生物の分類に限って言えば、界、門、綱、目、科、属、種、という階層があり、種の中に個体がありますが、これは「小物」つまり地上の存在物の階層です。「神」は「天」の内部における活動性です。たとえば、蝶はひらひらと飛び、羽を立てて止まります。これは蝶という種に固有の活動性です。蝉は何年ものあいだ土の中で暮らし、成虫に成ったら騒がしく鳴いて子孫を残して死んでいきます。蝉の鳴き声は種によって定まっています。つまり、生物の活動性はそれが属する階層によって決まっているのです。この関係を「天神」と梅園は言いました。定まった範疇とその範囲での個体の活動性のことです。梅園は排反事象で分類しますから、02509-10:に「陸物は水に死し、水物は陸に死す」と書いています。陸生動物は水の中では生きられないし、水生動物は陸の上では生きられません。当然のことです。 「小物」に対しては「大物」があります。「大物」は地球環境の大規模構造のことで、天文気象現象のことです。太陽の光圏の明るさと宇宙の闇の暗さは、地球では昼と夜として現象化し、「小物」である生物に生存のリズムである活動と睡眠を与えます。 ただし、「天神」という概念は生物に限りません。天文現象にも当てはまります。太陽は光を放ち地上に昼をもたらします。季節では春と夏をもたらし、生命に息吹を与えます。つまり、その名の通り、太陽は地球環境に明るさや暖かさなどの陽の気をもたらすことがその「天」であるわけです。逆に、夜空は宇宙の暗黒であり、太陽を始め夜空の星々の輝きを吸収し、地上に夜の暗さと冬の寒さなどの陰の気をもたらします。また私達人類には、神秘と畏敬の念を呼び起こし、果てしない探究心をかき立てます。西洋の物質中心の考え方に馴染んでいる私達には分かりづらいのですが、物質文明が流入する以前に陰陽論で発想していた時代には、太陽はお天道さまであり、天照大神(あまてらすおおみかみ)の現れでもありました。 左象限の「天地」は、存在の場と存在するもののことです。存在の場としての「天」は、時間と空間であり、そこには運動のいろいろな軌道があります。「地」は基本的には地球のことです。むろん、地上に存在する諸々の生き物も含まれますが、それは別途「小冊」(地上の諸存在を論じる部)で考察されます。 では、左の「神物剖析図」を解説します。『玄語』は「小冊」で論じられる生物類を除けば、すべてこの図に凝縮されていると言ってよいでしょう。 右半分は、「天神天地図」の「天」と「神」をより詳細に分割しています。「天∥有」(以下、∥は略す)は「範疇は内包する」という意味です。何を内包しているかと言うと「道状」と「徳貌」です。「道状」は、自然界のすべてのものが時間の中で「神為」と「天成」、つまり発動因子の創造作用と範疇(天)の形成作用によって成り立っていることを示しています。「徳貌」は、そのようにして変化生成するものには、事象(時間的変化)と物象(自然界の諸物体)があることを示しています。事象は昼夜の入れ替わり、季節の変化、生物の世界の目まぐるしい変化など、時間とともに変化するもののことです。物象とは、山岳河海のように変わらないもののことです。日月星辰も夜空青空も変わりません。ただし「定度常軌」(一定の周期と定まった軌道)を以て移動します。そういうものすべてを「物定」と書いています。 もし時間的変化が無い自然界を考えますと、それはパノラマになります。そのパノラマのひとつひとつの要素に時間的変化が加わって変化する自然が生まれます。自然を変化させる主体を「鬱浡の神」(うつぼつのしん)と言います。図では、その「神」とその作用としての「為」を書いています。「為」には自ら変化することと他を変化させることのふたつがあります。川の流れが良い例です。川が流れるのは自動詞的作用です。しかしそれによって河岸を少しずつ削り、川の形を変えていきます。これは他動詞的作用です。 その「鬱浡の神」は、やみくもに活動しているわけではありません。活動には型があります。たとえば太陽は天空にあって明るく輝き、同じ軌道を決まった周期で巡ります。天空の星々は夜空で輝きます。これらは、地球環境の大規模構造を作ります。それは本来ならば冷たく凍っている星である地球を水と大気がある星に変えます。これは太陽の「神為」です。水と空気は生命を生みます。水中で生きるもの、陸上で生きるもの、地から生えるもの、大地を走るもの、空を飛ぶもの、大地の中で生きるものなどを生み出します。 それらにはそれぞれの型があり、それぞれに名前がつけられています。一番大きな分類は「ドメイン」です。次は「界」「門」「綱」「目」「科」「属」「種」と続き、それぞれに特徴があります。むろん、生物だけでなく、地上には山・岳・河・海・湖・池などがあり、生物に生息場所を与えています。それが型であり、梅園は「天」と言いました。「天」は為すものではなく、成るもの、あるいは成ったものですから「天成」と言います。凡例に当たる「例旨」に、 16141: 天冊の天は性なり。鬱浡の活なり。 と書かれていますが、この文は、自然の諸階層・諸類型、およびそれに所属する諸存在それぞれがその本性に応じた活動をするものであることを述べています。魚が空を飛ぶことはなく、鳥が深海を泳ぐことはなく、石が喋ることも、樹木が歩くこともありません。すべてのものは、それぞれに応じた活動をしています。 「神為」は「天成」と常に一体となって活動しており、全体としてこの大自然を作り上げています。鳥は飛び、魚は泳ぎ、水は流れて大海となり、山は聳え立って樹木を活かし、樹木は小動物の棲家となります。鳥は飛び、蝶は舞い、虫は這い回り、それぞれの型に応じて活動します。 「鬱浡の神」は、型を持った自然の諸存在の中にあって活動します。決して、物の外に出ることはありません。時には大気が乾燥して山火事を起こしたり、大雨で土砂崩れを起こしたりしますが、それも、数十年もすれば自然の美しさを取り戻します。それらすべてが「鬱浡の神」の活動です。「天成」は、本来の姿を形成する作用です。それによって、ときに地震や火山の噴火のような破局的な破壊が起きることも在るのですが、やがて自然本来の美しさを取り戻します。それは時間経過の中で起きることですから「道状」と書かれています。私たちは今現在の「道状」と「徳貌」を見ているのですが、百年前・百万年前にはちがった変化と姿がありました。 その間も、事象は変化し、物象・物体は定まります。それぞれの「道状」に応じてそれぞれの「徳貌」があります。自然界全体でも、卵から孵化した雛が育つ過程も、すべて「神為」「天成」「事変」「物定」の連続で在ることにおいては同じです。 その下の白の象限、つまり第四象限は「天冊立部」に対応しています。「天有」の排反事象として「神運」が対応しています。「神運」は「才運」と「性具」を論理的に包含しています。つまり「才運」と「性具」は排反事象です。「才運」は「造来」と「化往」を論理的に包含しています。「造来」は新たに創造されることを意味し、「化往」は過去に定着していくことを意味しています。従って「才運」は、自然界の絶え間ない自己更新を意味することになります。 「性具」は、「本立」と「神活」を論理的に包含しています。「本立」は自然とその中の諸存在が同一性を保持することを意味し、「神活」は同一性が保持される間の活動性を意味します。現代的な用語を使えば、生物学者の福岡伸一(1959-)氏が提唱した「動的平衡」(Dynamic Equilibrium)が近い概念です。絶え間なく変化しながら同一性を保持している状態です。私たちは、生まれて死ぬまで同一人物です。しかし、細胞はすべて入れ替わっています。常に呼吸し、常に血液を巡らせ、子供から大人へ、そして老人へと変化していきますが、生きている間は「動的平衡」の状態にあります。「性具」は、一個人になぞらえて言えばその本人のことですが、最大のものは自然界全体です。最小のものは微生物になるでしょう。 動的平衡においては、生命は絶え間なく自らを壊しながら作り直すことで定常性・恒常性を保ちますが、生物は個体の内部でも、世代交代においても、それを示しています。 梅園は、生物も含め、自然に変化をもたらす要因を「鬱浡の神」(うつぼつのしん)あるいは単に「神」(しん)と言いました。その活動には持続性が伴います。その持続する力を「本」(ほん。または「本気」)と言います。「本」は、本当・本物・本心・本性・本人などのように変わらないものを意味します。「本」が付く言葉で簡単に変わるものはありません。 つまり自然界には、同一性を保持する力と、変化させる作用が同居しているのです。梅園は、それを「自然而使然」(じぜんにしてしぜん)と書いています。また、これを縮めて「自使然」とも書いています。つまり、自然には「自ずから然る」という側面と「然ら使める」という側面があり、それが排反事象として両立しているわけです。つまり、自然とは「定常性を保ちつつ変化する全体的な存在」と言えるでしょう。この「自使然」が端的に現れるのが地上の環境世界であり、それを解説するのが「小冊」です。「小冊」は、地球環境の小規模構造としての生物群を論じます。そしてすべてが「鬱浡の神」の活動であることを示すのが右半分の象限で、それを論じるのが「天冊・活部」と「天冊・立部」です。難解になりましたが、『玄語』には難解でない言葉や文はひとつもありません。 ![]() さて、左半分の象限を見てみましょう。左上の白の象限は「地冊没部」です。現代的に言い換えれば、物質界の非物質領域です。11時の方向の外側に「宙通」と「宇塞」があります。「宙通」は時間は通じる、という意味です。「宇塞」は空間は満ち塞がるという意味です。ここから「宇宙」をuniverseと訳してはいけない理由がわかります。あくまでも空間と時間なのです。 その上にある「天容」は、物理学的に見れば四次元時空連続体ですが、生命の成長の時間も内包しています。アインシュタインの物理学的な時間とベルグソンの生命的時間が「天容」においては融合しているのです。 左の外側は、「転動」と「持止」になっています。「転動」は天体の回転領域ですが、人工衛星の軌道がこれに近いです。梅園の時代では月の軌道が近いものでした。上昇下降の運動領域と天体の回転運動の領域を数理的に一意化したのがニュートンで、これによって弾道計算ができるようになり、ロケットやミサイルの時代が到来しました。 1957年のスプートニク1号の成功を皮切りに宇宙の開発競争が始まり、多くの人工衛星が打ち上げられるようになりました。人工衛星のほとんどは非軍事用で、通信や気象観測に使われています。ことにスペースリンク社だけで1万機の通信衛星を打ち上げており、今後4万機を超えると予想されています。 これらは、私たちの日常生活に密接に関わっており、毎日の天気予報、GPSによる位置検索やグーグルアースなどによる地図検索など、人工衛星を抜きにして私たちの日常生活を語ることはできなくなっています。つまり、梅園の宇宙論が現実感を伴ってクローズアップされる時代に成っています。この「転動」と「持止」は、「転持図」として描かれていますので下に掲載しておきます。 ![]() では、「転持」(転動持止)の上の「機没」は何を意味するのでしょうか? 「機没」は運動の軌道が無いことを意味しています。その「機没」が「転持」を論理的に包含しています。逆に言えば、「機没」から「転動」と「持止」が排反事象として出現するのです。しかし、運動軌道は時間と空間がないと現れません。それが「宇宙」(宙通宇塞)です。その領域、つまり、時空間と運動軌道が融合した領域が梅園の「時空連続体」です。従って、左上の第三象限の外側の四つの円の中の「宇」「宙」「転」「持」が融合したものが、私たちが生きているこの世界であることになります。 「転動持止」は「機没」に論理的に包含され、「宙通宇塞」は「天容」に論理的に包含されます。そしてそのふたつのドメインは非時間・非空間・無軌道を意味する「天虚」に論理包含されます。「天虚」では、排反事象つまり「反」以外何も起きません。ということはここで起きる運動は量子エンタングルメントであることになります。しかし、その「天虚」ですら「物立」に論理包含されています。 ということは、「天虚」の領域で運動できる物質は量子だけだということになります。それ以外の物質は、左下の黒の第三象限に移行することになります。このレベルになりますと、梅園はニュートンやアインシュタインを完全に超えていました。これは推論エンジンとしての「反」の論理の強力さがもたらしたものです。「反」は現代ではNANDとして知られており、NANDフラッシュメモリーとして大容量データを長期間保存するという用途に使われています。 では、「物立」は何を意味するのでしょうか? 梅園は時間も空間も、運動の軌道も、量子もつれしか起きない「天虚」も、物質が存在する場だと考えていました。それを論じるのが物質界の非物質領域を論じる「地冊没部」です。 現代の量子力学では、物質は場の励起状態だと見做されていますから「物立」は「場の励起」のことと解釈して良いと思います。「場の励起」が生み出す物質を「地実」と書いていると解釈できます。その「地実」は、排反事象によって物体性を持たない「気」(気見)と物体性を持つ「物」(物居)に分かれますが、両方ともに場を意味する「天」に存在しますから「地実」とされているのでしょう。「物立」は「天虚」と「地実」を排反事象として論理包含しているわけですが、量子論的に言い換えれば、 # 場の励起は、場と物質を論理的に包含する。 ということになるはずです。それが右半分の象限を統合する「神活」と排反事象になっています。この「神活」が場を励起させるのだとすると、右半分の「天」の象限をどのように解釈すればよいのでしょうか? 場の励起を引き起こすものが「神活」なのかもしれませんが、私には分かりません。 さて、「地実」の右下の「気見」は排反事象によって「水」と「火」に分かれます。この「水」と「火」は、私たちが日常的に知っている水と火を含みますが、「火」は、太陽の中で起きている核融合反応や火山の噴火なども含みますし、「水」は惑星の中で凍っている水まで含みます。最近の研究では、私たちが創造しているより遥かに多くの惑星が水を持っていると考えられるようになりましたが、梅園は、 09028: 月は水を体すれば、則ち 09029: 諸辰の景中に在する者は、皆な水を体するなり。 と書いています。宇宙における物質の量からすれば、水(H2O)は決して少なくはなく、恒星が宇宙の「火」なら、惑星の中には必ず「水」があるはずだという梅園の推論は無視できません。排反事象として「水火」があることを考えれば、「惑星には必ず水がある」という梅園の推論は、むしろ必然だと言えます。 左上の「物居」は「天散」と「地結」に分かれます。「天散」は天球・天空のことで、「地結」は大地・地球のことですが、拡張して考えれば、宇宙の大規模泡構造も「天散」に入りますし、宇宙の大規模構造を成す銀河フィラメントも「地結」になるかもしれませんが、梅園はあくまでも地球環境の論理的描像を描こうとしていましたから、そこまで拡張して『玄語』を考察する必要はないでしょう。 |