13.神物活立図(しんぶつかつりつず)            12.一一対待図(いちいちたいたいず)

GoogleAI_"Gemini"の感想

 
 このページにあるのは「一一対待図」と「神物活立図」です。「一一対待図」から解説します。

 この図も先の「一二精粗図」と同じ構成の図です。「一一」と「一二」の違いは「一一」が一対一の対応関係を持っているのに対し、「一二」は、一方が計算不可能で、他方の「二」が計算可能な存在を意味しているという違いがあります。計算可能性と計算不可能性を「反」の事象(排反事象)として捉えているのです。

 つまり、男性と女性に分かれる前の人間は、現実態ではないので数えることが出来ません。現実態としての人間は、男性・女性・小児・老人など様々ですが、人数を数えることが出来ます。

 『多賀墨卿君にこたふる書』に、

 二は則ち万物の位、一は則ち統べざる所なきの位なり。

という文があります。万物は数えることが出来ます。「統べざる所なき」は、集合と見ることが出来ますから、その要素を数えるようには数えられません。

 さて、左の「一二食吐図」を解説します。丸の中の語は一度は使われた語が多いのですが、解説しないと抽象的すぎて分かりづらいと思います。もっとも、解説する私も絶対の確信を持って説明しているわけではありません。とにかく『玄語』の用語は難解なのです。

 まず、外周の縁に接している「混ー粲」と「分ー合」から説明しますが、この四つの語は「混成」「粲立」「一分」「二合」として使われます。先に説明に用いた「可能態としてのしての人間」は一全体である「混成」において存在するのですが、現実の世界には現れません。現実の世界に現れるには男女どちらかとして生まれなければなりません。これは分離して現実化した「粲立」の存在です。これが「混ー粲」です。時系列では、幼児と老人という分類ができます。それ以前と以後では、生前と死後に分かれます。

 次に「全」と「偏」ですが、これは全体集合と部分集合と考えて良いと思います。たとえば、植物という集合には、草本類と木本類があります。それらはさらにいろいろな種類に分れます。その他、菌類・苔類・ツタ類・寄生植物など種々さまざまに分かれますが、大地から生えて動かないという基本の性質は変わりません。

 梅園の植物の分類で極めて特異なのは、土と石を植物に分類していることです。これは、

一三五八五26復  地なる者は、塊然として中處す。土石は植に漸んで、未だ地體を離れず。
一三五八五27復  故に其の形を塊然にして、未だ之を歧に開かず。石は已に定體を爲す。
                            (この二行は、復元した梅園自筆の文。ぺりかん社版影印版『玄語』下巻161頁)

という文から推測できることですが、この文は、版下本からは抹消されています。梅園は、土石が植物に吸収されて、それが更に動物に吸収されて骨格を形成することを知っていたものと思われます。

 私は、梅園の分類法を「様態分類学」と名付けています。英語に翻訳しますと"morphologic classification"となるでしょう。この分類法からしますと、ホヤやサンゴは植物であることになります。系統分類学では動物ですが、様態分類学では植物になります。ひとつの考え方ただけで説明し尽くせるほど自然は単純ではありません。ですから、私はこういう二種の分類法があっても良いと考えています。単一の原理から自然全体を説明し尽くせると考えるのは、西欧に固有の考え方です。

 しかし、この西欧的な直線的自然観と還元主義は、後世において地下資源と化石エネルギーの過度な搾取を生み、人間の生活世界や、生き物たちの「環世界」(ユクスキュル)を決定的に破壊することになりました。こうした近代の病理は、後にフッサールやサルトルらによって厳しく批判されることになりますが、梅園はそれより遥か以前に、西欧とは全く異なる多中心・多元的なシステム論(様態分類学)によって、自然との共生の道を提示していたのです。

 「統」「散」は、理解しづらい概念ですが、要するに、天空にあるものは「天物」もしくは「大物」として統一的に把握できますが、個々の天体類、天文現象は、その中で散らばっています。

 同様に、地上にあるものは「地物」として統合されますが、個々の存在は、山岳河海・動物・植物・魚・鳥・昆虫などのように、それぞれ地上に散らばって存在しています。

 そういう意味での「統」と「散」です。

 得体が知れないほど難解な『玄語』の文の中でも、特に難解なのが範疇論と活動論である「天冊」です。その中に次のような文があります。「経緯剖対図」をもう一度見たうえで読んでみてください。

 一は二を有す。故に芒忽(ぼうこつ)の間、喪うが如し。而して能く浡浡(ぼつぼつ)として万開を有する者は徳なり。二は一を開く。故に鬱浡の中に得る有り。而して能く歴歴として一有を開く者は道なり。

 どうですか? 得体が知れない難解さでしょう。この文の中の「一」は、集合を表すと考えてください。「二」は上位の「一」から見ればその下位集合です。下位集合は要素群を持ちます。それは、動物と植物のように相反する性格を持つふたつの群に分かれます。この文は、現代的な用語を用いて翻訳すれば次のような意味になります。

 上位の集合は、下位のふたつの集合を内包する。だから上位の集合の連鎖を辿っていけば個々の自然物を見ることはない。しかしながら、自然界の膨大な諸存在を内部に持つものはその可能態としての集合(範疇)です。下位の集合は上位の集合をふたつの正反対の性格を持つものに分離したものです。だから、現実態として自然界に存在できます。そこで、原初の存在を明確に眼前の自然界として開陳するものは、条理という道です。

 おおむね、このような意味なのですが、集合論や範疇論、論理学やシステム理論などがなかった時代に、独自の用語を造語しながら漢文でこのような内容の文を書いたのですから、当時の人々に理解されるはずはありませんでした。ただ、梅園最後の弟子の矢野弘は、梅園没後、『玄語』をまたたく間に理解して、三浦黄鶴の出版用版下の校訂を補佐しました。付箋から見ると、矢野弘のほうがよく理解しているのですが、彼は三浦黄鶴の娘婿で、黄鶴は義理の父でしたから、控えめな注意にとどまっています。曰く「再度、論定を請う」、曰く「再考を乞う」、曰く「更に熟考を要す」・・・。こういう付箋を読みますと、彼のもどかしさが伝わってきます。

 しかし、矢野弘の思いは届かず、最終的に仕上がった黄鶴校訂版『玄語』は、重大なミスが散見される不完全なものになりました。現代の梅園研究はこの黄鶴校訂版を底本としていますから、まともな研究をするのは無理というものです。黄鶴のミスの中で最も重大なものは、図の名称の変更です。杵築藩の郡奉行を務め、藩の漢学の教授でもあった黄鶴は、決して凡庸な人ではなかったのですが、『玄語』に関しては父梅園に理解が及ばなかったことがわかります。

 国立公文書館デジタルアーカイブの写本の『玄語』も、黄鶴校訂版ですので、梅園自筆の初筆復元版は、私が制作したものしかありません。幸い台湾版がかなりダウンロードされていますので、いずれ台湾や中国で梅園が研究される日が来ると思います。台湾・中国の人は常用漢字は読めません。

 「神物活立図」は、活動性の朱印である「神」と活動する「物」を左右に描いた図です。右半分の象限は「宙行」と書かれています。「時は行く」という意味です。時間の中にあるものはすべて変化します。変化の主因を「神」(しん)と言います。「鬱浡の神」とも書かれています。私は「発動因子」(triggering factors)と訳しました。

 右上に「性-英-為」と書かれているのは、自然に存在するものに固有の性格のことです。花の美しさ、星々の神秘な輝き、躍動する野生の動物たちはそれぞれの「性」を持っています。「本性」と言ってもよいです。

 右下には「体-精-運」と書かれています。これは自然に存在するものの形態は精密な機構があり、それによって栄養や血液などを運び、かつ運動するという意味です。天体の回転から、鳥の飛翔や微生物の活動まで「体-精-運」から外れるものはありません。

 左の「物立」は、物の存在という意味です。物が存在するためには、存在するための場がなければなりません。「宇居」は、空間に存在する、という意味です。

 左上の「気-本-保」は、存在を維持する力のことです。それは目に見える力ではないので「気」と書いています。「本」は同一性の保持のことです。どのようなものでも、それ自体であり続けます。蝶のように卵・幼虫・蛹・成虫と劇的な変化をする生物でも、蝶であることの同一性を保持しています。また、その変化は世代を超えて変わることがありません。

 左下の「物-根-営」は、存在を維持する力によって存在し続けるものは、必ず物質をその根として持っていて、その物質の活動によってさまざまな営みを行うことができるのだと言うことを意味しています。

inserted by FC2 system