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この図もワンペアの図(一合図)ではありません。右の「一二精粗図」(粗=麁)は24回目の改訂版である「天明本」で初めて現れた図です。『玄語』の研究者にとって、長いあいだこの図は謎のままでした。稀代の碩学であった末木剛博東京大学教授(故人)も、直線が交差している理由がわからないとおっしゃっていました。私にも長いあいだ謎でした。 しかし、あるとき、この図がふたつの図を合わせてひとつの図にしたものであることに気が付きました。左象限を省いて右象限の「性」を中心に移動させると、「一」が「精」の位置に、「混」が「没」の位置に、「粲」が「隠」の位置に来る図がひとつ出来ます。同様の操作で「物」を中心においた図がひとつ出来ます。 この図は、そのふたつの図を合わせた図です。これで謎が解けました。 右象限の第二円の「一」と反対側にある「二」は、「一」と「二」だけから出来た「経緯剖対図」の「一」と「二」を示しています。「一」はヤジロベエ型の三肢の連鎖を作っていますが、その頭に位置する「一」は下のふたつの「一」を統合させたものです。つまり、男性と女性を例にすれば両者を超えた「人間」という存在です。これが「混成」の状態です。「混成」は可能態であり、現実態ではありません。現実体の特徴は「数えられる」ことにあります。その可能態を「性」と名付け、現実態を「体」と名付けています。文の中で、梅園が「一性二体」と書くときは、必ず可能態と現実帯という意味で書いて言います。 ただし、「地冊・露部」の「性界」という時の「性」は生命世界、つまり、光と水が融合した領域を意味しています。生き物はその中で生まれます。文字は同じですが、意味は全く違います。 こういう梅園の思想を西洋になぞらえて解釈するのがこれまでの研究の流れでしたが、これからは西洋が東洋に、いや、日本になぞらえて自分たちの文明を解釈する時代がやってきます。西欧は、古代ギリシャから現代西欧までをもういちど包括的に研究し直す必要があります。近現代の西欧の歴史観は、西欧で普及した三位一体説キリスト教の優位性を信じすぎたための誤解があります。 キリスト教には、西欧で広く布教され、聖母マリアを崇拝する三位一体説キリスト教とそれに抵抗したプロテスタント諸派のほかに、5世紀なかばに教派分裂を起こして東方に勢力を伸ばした「景教」があります。景教とは、太陽の光のように輝かしい教えという意味で、三位一体説とマリア信仰、十字架の贖罪を否定し、神性と人性が融合した神人一体のキリストを信じました。これを「両性説キリスト教」と言います。 この教えは、周易の陰陽二元論、釈尊の教え、摩尼教の教えとも相性が良く、唐代で大いに教勢を伸ばし、それが日本にも伝わっています。実際、十字架で処刑される前のイエスは、釈迦の教えに近い徹底した非暴力主義を説いていますが、決して、私は、貴方がたを原罪から救うために十字架で死ぬ、というようなことは言っていません。むしろ、十字架を背負って処刑場に向かうイエスは、 「妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ」と言う日が、いまに来る。 と、処刑に対する恨みとも取れる言葉を残しています。(ルカによる福音書 第23章) 摩尼教は仏教に深く浸透し「摩尼光仏」として崇められました。まるで仏のような姿に成った摩尼が手に十字架を持っている仏画があります。唐代ではこのように異国の宗教が混淆していました。それが日本に伝わっているのです。この摩尼教が、梅園が生まれ育った両子の里の教えである天台密教に深く浸透しています。 西欧に広まったキリスト教は、イエス・キリストがエデンの園における人類の原罪を十字架の刑に処せられることで贖(あがな)った救世主であるとする信仰で、これは聖パウロが広めたもので、「景教」という漢訳され、遣隋使・遣唐使の時代に日本にも伝わったキリスト教とは全く内容が違います。 聖徳太子が「厩戸皇子」(うまやどのみこ)と呼ぼれるのは、イエス・キリストが馬小屋で生まれたことになぞらえたもので、実際に、安産と神の子が生まれるようにと願って馬小屋で生んだということも考えられます。 このようなことを書いたのは、梅園の思想の西洋哲学的解釈が、実は西欧におけるキリスト教の布教の勢いと、キリスト教に対する反動に押されてのものであるからです。西欧崇拝は、もう終わりにしなければなりません。 さて、先に「気物相吐粲立図」という図がありました。図の中心に「物」という字がありました。その前に「大」を付けて「大物」とすると地球環境の大規模構造になります。「小」を付けて「小物」としますと、小規模構造になります。小規模構造とは、地球生態系あるいは生物圏のことです。むろん、個々の生物も含まれます。 この図では上半分が「天」、下半分が「地」とされていますが、梅園は「精天粗地」という語をよく使います。天は精密なもので、地は肌理(きめ)の粗いものです。「精天」は、時間・空間・生命・精神・意識・青空・夜空などを意味し、「粗地」は、大地・山岳・河海・動植物の身体など、触れることができるものを意味します。我々とともに生きている生き物や、身の回りのものはすべて大地に存在する粗いものばかりです。簡単に言うと物質からできているものです。 さて、左象限の「物」を解説します。「気物相吐粲立図」の中心の「物」は「天」と「地」に分かれていました。それが「精天」と「粗地」であることはいま書きました。その「精」と「粗」が第二円に書かれています。それぞれに「気」と「物」が関連付けられ、「精」は「隠」と「見」に、「粗」は「物」に関連付けられています。 なぜこういう語の配当になるとか言いますと、梅園が文の中の語と図の中の語の相互のつながりを意識していることと、小さな円の中には一語しか書けないこと、極力言葉を節約していることが挙げられます。江戸時代では、紙は貴重品でした。出版するとなりますと、彫り師が版木に文字を掘って摺り師が一枚一枚刷り、針と糸で製本するのですからお金がかかりましたし、学術書は自費出版でした。版元やパトロンが出版費用を出してくれることもあったでしょうが、執筆に際しては極力文字を節約する必要がありました。 さて、経済的な事情は別として、図の中の語は、文でつなぐことが出来ます。最初のワンペアの図は、白円の「一」と黒円の「一」、次は白円の「気」と黒円の「物」になっています。これが文の中の「一気一物」に対応しています。梅園は、文の中で「一気一物」と書くとき、必ずこのふたつの一合図を念頭に置いて書いています。 左の「物」は「精」と「粗」に分かれます。「精」は精妙・精密・精緻などの「精」で、時間と空間、運動軌道、自然界の法則などを意味します。これらは無形のものですから「気」であるとされています。 「精」は「隠」と「見」に分かれますが、「隠」は隠れたもの、「見」は現れたものです。梅園は、 見時は衆神の遊ぶところ。 と書いています。「見時」とは現在のことです。「現在は諸活動の現れるところ」という意味です。自然界の活動は全て現在においてなされます。これに対して過去や未来は隠れた時間です。 運動の法則などは、普通は隠れています。もし、石を放り投げれば、放物線を描いて落ちていきますが、軌道は隠れてしまいます。「隠」と「見」が意味しているものはほかにもあるかもしれませんが、具体的なものを思いつきません。 「粗」は「露」と「没」に分かれます。「露」は「地冊露部」つまり天体・天球・地球・明るさ・暗さ・色彩など、現れ出たものすべてを意味し、「没」は「地冊没部」つまり、時空間と運動軌道を意味します。 西欧の自然科学は、左半分に囚われ過ぎています。自然の隠された法則を数理化して、地下資源と化石エネルギーを改変して人工物を生み出し世界を覆い尽くしています。それによって、世界は、いま生きては居ないものによって生きているものが死に始めています。 左の「一二食吐図」は、「混成」と「粲立」、「一分」と「二合」、全体と偏り、統合と分散という、「一即一一」と定式化された「条理」による自然界の分離と統合の状態を示しています。 |