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「剖対反比図一合」の次は、「一一精粗図」と「経緯剖対図」があります。「麁」は「粗」の俗字で意味は同じです。図の名前の下に割り注で、 一一陰陽分合混粲偶一一之中 ・・・Aとします。 精粗天地隠見没露偶精粗之中 ・・・Bとします。 と書かれています。どういう意味かと言いますと、 A 一対一の均衡性と、陰と陽の対立と、燦然と分かれることと、融合して渾然一体と成ることは、 一即一一に従って起きる。 B 精密な機構と物質と、容れるところの天と居るところの地と、背後に隠れることと現前化するこ とと、姿を没することと現れることは、精密さと粗大さの範囲で起きる。 Bの精緻な機構の典型は、時間と空間・運動の法則などですが、生物の細胞内の活動や神経機構なども入ります。それらによって動く物質・物体は「粗」とされますが、物質・物体は必ず時空間の中に存在します。「天」とは、存在せしめるものであり、そのようにあらしめるもののことです。ニュートンが明らかにしたような物理法則は、『玄語』のなかでは「隠然の天」と言われます。目には見えないけれども、物体そのようにあらしめ、動かす絶対的な必然性であるからです。この図も再現なく広がり、最終的には素粒子の粒子性という「粗」に行き着き、波動性という「精」に行き着くと考えています。 西欧では、「隠然の天」であるに過ぎない物理化学の諸法則によって、地下エネルギー・地下資源を使って壮大な機械科学技術文明を生み出し世界を支配するに至りましたが、それは「隠」の対である「見」つまり現前化している自然界を破壊するに至っています。物理化学の諸法則は、この現前化した自然界を生み出すために存在します。それを人間が自然を改変する道具として、つかい自然の生き物を絶滅に追いやっているのが今の世界です。 ヨーロッパでは、エドムント・フッサールがその晩年に「生活世界の学」を展開しました。彼は、意識への現れから世界を説明しようとし、「現象学」という学問を生み出しましたが、その試みは多くの批判にさらされました。しかし、「生活世界の学」はこんにちいっそう大きな意味を持つように成っています。 イギリスの環境科学者ジェームズ・ラブロックは、地球を一個の生命体と見る「ガイア理論」を提唱しました。「ガイア理論」はドイツの生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した「環世界」とともに、こんにち重要な意味を持つに至っています。 なお、このふたつの思想は、梅園の思想に内在していますが、その考察は、このふたりほど詳細ではありません。 次の「経緯剖対図」は、すべてが等しい価値を持っていることを示す図です。中心の「一」は、「一不上図」と書かれた言明不能な一者です。しかし、この「一」は、 すでに書きました通り、凡例に当たる「例旨」に、 一なる者は数えずして足る。故に之を剖きて破る可からざるに至るも猶お一を尽さず。之を加えて載す可 からざるに至るも猶お一に至らず。 と説明されていた数ですから、宇宙全体も「一」ですし、顕微鏡でないと見えないような微生物も「一」です。つまり「一」は「存在している」ことを示す代数です。したがって私は、これを「存在数」と名付けています。アーサー・ケストラーは部分でも全体でもある概念を考案し、それに「ホロン」という名前をつけました。このホロンを代数化し、システム化したのが梅園の「一」だと言って差し支えないでしょう。梅園は「一移りて二に居る」と言っています。これは文による「条理」の説明です。この構造がどこまでも続くというのが梅園の「条理」の説です。中心の「一」は更に上の「一一」の片割れとしての「一」です。その「一一」にはそれを統合した「一」がありますが、それも更に上の「一一」のどちらかです。こういうふうに上にも下にも際限なく続くのが、存在数である「一」です。 私は、この「一」を存在数、あるいは存在代数と名付けています。この命名についてどう思うかをGoogle AIに尋ねてみたところ、以下のような答えが返ってきましたので要約してご紹介します。 1.この図における「一」を「存在数」や「存在代数」と名付けるという考えは、非常に鋭く、梅園の思想の本質を突いた面白い視点だと思う。 2.梅園は、世界を「一」が「対(つい)」に分かれ、さらにその対が組み合わさって万物を構成するという「一即一一、一一即一」の論理で説明しました。図の中の「一」は、単なる数字の1ではなく、「そこに一つの事物が成立していること」、あるいは「存在の最小単位やその根源」を記号化したものと言えます。したがって「存在数」という命名は、梅園が意図した「存在の理法」を現代的な感覚で捉え直した表現として非常に説得力がある。 3.「存在代数」という言葉という言葉を使うことで、特定の具体的な対象ではなく、あらゆる存在に共通する構造(変数)として「一」を捉えているニュアンスが強調される。梅園は、天文学から生物、道徳に至るまで、この図のような構造が共通して存在すると考えた。これはまさに、具体的な数値ではなく「構造の規則」を扱う代数学的な発想に近い。 4.「経緯剖対図」は、縦(経)と横(緯)の広がりの中で、いかにして物事が分かたれ、対比されているかを示している。 4a 中心の「一」は、万物の根源や統合された状態。 4b 分岐した「一」は、分化し、具体的な形を持って現れた存在。 4c 「一」を「存在を指示する数」と呼ぶとき、それは「数が存在を作っている」というよりは、「存在が あるところには必ずこの法則(一)が宿っている」という、存在のロゴス(論理)を指していると考 えられる。 三浦梅園の「条理」という難解な概念を、「存在をカウントし、構造化するための数」として解釈するのは、現代における梅園思想の新しい読み解き方として非常に価値があると感じる。 以上でした。 ここで、この30年のあいだ折に触れて考えてきた、ラッセルの階型理論と還元公理の問題を、この図に適応して考えてみたいと思います。末木剛博著『記号論理学』(東大学術叢書 1963)の130頁に、(6)階型の理論 という項目があり、132頁に(9)この階型理論の難点 として、以下のような記述をしています。本文そのままの引用ではなく、箇条書きに略記します。 1.数とはそれと個数の等しい集合の類(集合)である。 2.同様に数0は空集合の類(集合)である。 3.いま空集合をλであらわすと、0はλを唯一の成員とする集合である。(λ ラムダ) 4.すなわち、{λ}=0 となる。 5.しかるに階型の理論によれば、各階型(または各領域)はそれぞれの空集合を持つ。 6.したがって、第1の階型に属する空集合をλ1、第2の階型に属する空集合をλ2、の如くすれば、0は これら{λ1, λ2, ・・・・} となる。これは上記の0の定義に背反する。故に階型の別を立てる と、数の定義ができなくなる。 そのため、還元公理というものを考えて、どの階層からも一階に降りられるようにしましたが、各階層に分けるということから各階層をつなぐということは必然的には導けないので、随分批判されましたし、ラッセル自身も当初からその矛盾を指摘していました。 論理的な整合性はともかくとして、コンピュータを使うものとしては、どの階層からも出発点のルート・ディレクトリに帰れねば困ります。だから、還元公理がないと困ります。 しかし、それは西欧の論理の事情です。『玄語』の論理にはそもそも「0」がありません。『玄語』では、「1」は要素がひとつの集合ではなく、「玄なる一元気」を不並立によって1回分割したという意味の数です。「一即一一」とか「一即二」という漢数字による演算の表記は、上位の「一」を一回切断したら「二」(ふたつ)になるという意味です。ふたつに別れたものは、上位の一によって論理的に包含あるいは包摂されますが、このふたつは排反事象になります。 たとえば、生命を一回分割して動物と植物に分けることは自然界そのものが行っていることですが、動物や植物の個体の数を数えるということは人間の行為であって自然は行いません。西欧で問題にした数はかぞえ数です。梅園の数は、分割の回数を意味しています。 その点では、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の命題6.021「数とは操作のべきである」という言明と酷似しています。ここから私は、シェファーもヴィトゲンシュタインも『玄語』の図を見たのではないかと思うようになりました。ケンブリッジやオックスフォード大学の蔵書目録を調べるべきです。 数を集合の要素の数に対応させるのは、フレーゲとラッセルの数解釈ですが、梅園はそもそも数を分割という操作の回数としてしか扱っていません。それを書いているのが「天数図」と「人数図」(じんすうず)で、「天数」が分割された集合の数を、「人数」がかぞえ数を意味しています。詳しくは「天数図」「人数図」で論じることにします。 |