凡 例 ○凡例12を訂正しました。(2004.10.07) 1.本資料は梅園全集版『玄語』を底本とし、文字校正を梅園文庫[写本939]によって行った。梅 園全集版の『玄語』の底本と、写本939は非常に近い関係にある稿本である。従って、本資料の構 成もこれらに倣っている。つまり、梅園の長男である三浦黄鶴と晩年の弟子であった矢野弘の編集方 針を踏襲している。以下、全八冊が準拠している稿本を示す。 第一巻 本宗 浄書本 第二巻 天冊活部 安永本 第三巻 天冊立部 安永本 第四冊 地冊没部 浄書本 第五冊 地冊露部 浄書本 第六冊 小冊人部 安永本 第七冊 小冊物部 安永本 第八冊 例旨 安永本 『玄語』は安永四年時点で一応の完成を見たが、梅園は二十四回目の改稿に取り組み、志なかばで 他界したのである。これが浄書本である。黄鶴と弘は各冊における最終稿をとりまとめて全八冊を完 成させようとしたのであるが、果たせずに終わった。つまり『玄語』は、梅園自身によっても完成さ れることなく、かつ、黄鶴と弘の校訂作業も未完に終わったのである。一般に「歴年二十三。換稿も 亦た二十三」として完成されたと思われているのは安永本『玄語』であって、事実は「歴年三十六。 換稿二十四の途上で著者他界。未完のまま後世に遺さる」であり、かつ「校訂は未だ終了せず」であ る。黄鶴が安永本「例旨」の言葉をそのまま残したために後世が誤解しただけのことである。研究者 の中には、未だに黄鶴が上梓のために編集したものを梅園が完成した『玄語』であると誤解している 人が居るが、それは直ちに改められねばならない。 2.本資料の行番号は、【玄語検索用電子テキスト】(原文版と訓読版がある)と同じものであるが、 縦書き表記に合わせて漢数字に改めた。行番号は、コンピュータによる検索作業を行ったとき、抽出 された文がどの箇所に所属するものであるかを確認するために不可欠のものである。 3.行番号に続く表示は、たとえば[全一二三 上]であれば、梅園全集一二三頁上段に、「下」であ れば、下段に当該行の文が存在することを示す。ただし、編集の都合上、前後一行程度のズレが生じ た場合がある。 4.初期入力を行った浜田晃氏制作の全集版電子テキストのもともとの表記は、例えば G0020L-003 な どで -003 が三行目を指示しているが、本資料では全編を紙面に収める必要から、行数を割愛した。 ただし梅園全集は一頁十八行で書かれているので、[全一二三 上]という表記を数えて、五番目の 文ならば五行前後に、十五番目の文ならば十五行前後にあることになる。まったく同じ表記が十八個 ずつ並んでいるわけであるが、これを省略すると、梅園全集の中で文を探すのに手間取るようになる ので、そのまま残した。全集版『玄語』は梅園自身の読みを知る時には必要である。なお、浜田氏が 電子文書化を試みられたときには岩波日本思想大系41「三浦梅園」は刊行されていなかった。 5.條理語は原則として音読するようにし、通常の語(梅園の言う散言)は不自然にならぬよう適宜を 読み分けた。しかし、條理語と散言の境界は曖昧である場合があり、一意的な統一が為されているわ けではない。いずれであるかを明確に判定できる場合もあれば、いずれとも判断しかねる場合も多々 ある。ことに「小冊」にその例が多い。音読・訓読に関しては、いかんとも判断しがたい場合であっ てもいずれかを選ばねばならず、必ずしも正しいものとはなっていない場合もある。しかし主要な條 理語に関しては、語の縦並び・横並びを見れば明確に分かるように編集している。なお、條理語であ っても機械的に音読すると意味が読み取りづらくなる場合は、訓読するようにした。たとえば「見露」 は一対の條理語であるので「見(けん)す」「露(ろ)す」と読むべきであるが、多くの場合「けん・ す」とは読まず、「あらわ・す」と呼んだ。このような場合でも「見露」が條理語であることを承知 していれば混乱しないはずであるので、條理語であることがわかるように編集したつもりである。 6.條理語は、「同胞」・「R胎」のようなごく一部の例外を除けば、一語一義であり、二語一義はあ りえない。従って、たとえば「感応」は二字熟語ではなく「感」と「応」という相反する二語からな る條理語であるから、これは「かんおう」と読むべきであって「かんのう」と読むべきではない。あ くまでも「感と応」なのである。「條理」も二字熟語ではなく、相反する二語からなる條理語である ので、あくまでも「條と理」と解すべきである。「天地」は「天と地」、「宇宙」は「宇と宙」であ る。「動作」は「動と作」であるので、読みは「どうさ」ではなく「どうさく」となる。このような 例は非常に多い。相反する二語からなる條理語は、間に(と)を入れて読むことを念頭に置く必要が ある。しかし、これらとは違って「大物」や「小物」などは「大なる物」「小なる物」という意味で ある。これは上の語が下の語を形容している。この例も非常に多い。二語からなる條理語は、相反す る関係にあるのか、形容する関係にあるのかを読み誤ると間違いなく誤読するので、十二分に注意す る必要がある。(R=れん。外字一覧参照) 7.同様に、文中に「自然」という語があれば誰もが「しぜん」と読み、天然自然の意味であると誤解 する。これは「じぜん」という『玄語』の用語であって、普通いわれる意味での「しぜん」ではない。 「自然」(じぜん)と対を為すのは「使然」(しぜん)であって、この両者が合した「自使然」(じ しぜん)が一般に言われる意味での自然(しぜん、nature)である。こういう語にルビを振らなけれ ば、永遠に誤解されたままで終わるであろう。同様に「故」も「こ」と読む場合と「ゆえ」と読む場 合がある。明らかに「故に」と読める場合は問題ないが、「冥冥の故(ゆえ)」と読んだのでは語義 滅裂となる。このような観点から本資料では総ての漢字にルビを振ったのである。 8.「爲」と「成」は條理語ならば「い」「せい」と読むべきであり、助辞を送る場合でも「い・す」 「せい・す」と読まねばならない。しかし、この語は『玄語』の中でも特に條理語と散言(通用語) の区別が付きづらい場合が多く、いかんとも判断に苦しむ場合が多々あった。読みの不自然さを避け るために訓読した場合は「な・す」「な・る」とするように努めたが、徹底はできなかった。根本の 理由は『玄語』におけるのこの語の用法の曖昧さにあるが、限られた文字資源を反復利用せざるを得 なかった状況を考えると、それを梅園の責任にすることはできない。 9.「物」が明確に概念的でないと思われた場合は、前後の脈絡からより自然に読めるように「ぶつ」 とは読まず、「もの」と読むようにしたが、ほとんどすべての場合に於いて、非常に判断に苦しんだ。 10.東西南北は「とうざいなんぼく」と読んだ場合と「とうせいなんほく」と読んだ場合がある。前 者は、地球上の方位であり、後者は、天球規模での方位である。前者は二次元の概念であるが、後者 は三次元の概念であり、かつ、「東運・西転・南軸・北軸」の省略表記である。このような例は枚挙 にいとまがない。これらを誤りなく読める人ならば、ルビは不要であろうが、そのような読者を想定 することは困難である。 11.『玄語』は條理語の定義文集という性格を持っている。それは厳密な意味での定義ではなく、解 説すべき語とその解説という辞書的な性格を持つものである。梅園は、條理語の定義にあたっては、 必ず「**なる者は・・・なり」という文型を与えている。「**」を動詞として読んだ場合は「* *する者は」とした。時に「也」を欠く場合もあるが、本資料では「なり」を送った。「・・・なり」 という解説文の中に條理語が含まれる場合、それもまた「**なる者は」あるいは、「**する者は」 の「**」の位置に置かれて語義を解説さるべき語とされる。このような文型は、本資料の中ではお よそ8行に1行の割合で現れる。確率は12.5パーセントになる。 この定義文は入れ子構造(Nesting)を形成しており、その連鎖が『玄語』の本体を為していると考 えられる。『玄語』の入れ子構造のうち、同じ構造の反復である範囲は、再帰的(Recursive)構造を 形成している。再帰性を持つこの範囲が『玄語』の核(core)を為していると推測される。本体は語 の論理的連鎖によって構成されており、理念的には、ここまでが白と黒の傍点によって対称形に記述 される範囲である。これ以外に解説や例話などがあるが、その文は対称形を形成しない場合が多く、 かつ白丸の傍点によって書かれている。記述の原則がときに守られていない場合があるが、それはご く少数の文にとどまっている。このような構造から考察すると、『玄語』はそれを構成する語の定義 を自己自身の内部で行っている特異な書物であることがわかる。『玄語』は自己自身を自己の辞書と する書物なのである。 入れ子構造は文を超えて項目の連鎖にも適用されている。これは『玄語』全体に適用された構造と なっているので、項目をおろそかにすることはできない。これは紙面で説明するよりも電子文書とし て閲覧する方がわかりやすいので、別途準備された電子資料を参照されたい。 12.『玄語』の記述の原則や前後の脈絡から明らかに間違いと思われるものは、根拠となる資料が見 あたらない場合でも訂正した。たとえば「塊L」の「L」は安永本では「岐」とされているが、浄書 本に倣ってLに統一した。(L=き。外字一覧参照) 13.自筆稿本では、図の名称がいくつか訂正されているが、図の内容と照らし合わせて一致しないも のは、訂正前の名称を採用した。ただし、採用しなかった訂正後の図名は( )で示した。 14.本資料においては、梅園全集の誤植はすべて訂正したが、あまりに多すぎるので校異にはごく一 部しか記録しなかった。 15.自筆稿本の黒の傍点は、記号 〉に、白抜きの傍点は、記号 》に改めた。これは検索用電子テ キストとの連携を崩さないためである。将来、これらの傍点、またはそれとして用いることのできる 記号に文字コードが与えられれば一括して置き換えることもできるが、混在している各種文字コード 体系に登録されることは望めそうにないので、当分、この代用記号を用いる。この傍点の打ち方が明 らかに間違っている場合は、ことわりなく訂正したが、その数は至って少ないものであった。 16.本資料の訓読は、梅園自身による返り点・送り仮名の指示とかなり異なっている。ことに音訓の 読みわけに関しては、そのレトリックに惑わされないようにするため、いっさい無視した。これは梅 園の指示通りに読むと記述の対称性を視覚的に再現するという本資料の編集目的を達成できなくなり、 五里霧中の混乱に陥るからである。訓読前の漢文体の場合は、このような問題は生じない。水晶の結 晶のひとつひとつの面のような様相を持つ『玄語』の文の美しい対称性を極力そのまま再現し、かつ 現代人にも読めるものにするためには、漢文が教養人の通用語であった江戸時代に書かれた梅園の音 訓の読み分けの指示を無視することが、最終的には最も妥当な方法となった。 文献学的観点から、このような独自の読みをすることに疑義を唱えられる向きもあると思うが、校 閲を担当した五郎丸氏も巻末で触れているように、そもそも梅園の訓読には統一性の欠如という大き な問題がある。音訓まぜこぜの読みになっているのである。ここには梅園独自の美学と論理的必然性 があるのは確かである。梅園の読みは、「図は條理に整斉す」と書かれた図の整然性と対称性を為す のであるが、この資料では『玄語』解釈におけるひとつの段階として、読みに関わる梅園の美学と必 然性はいったん切り離すこととした。 17.梅園は図の整斉に対して「文は変化に錯綜す」と述べている。整然とした漢文に変化と錯綜をも たらすものがまさしく梅園の返り点・送り仮名であって、その通りに読んだら読み手の頭脳は文字通 り変化と錯綜のただ中に置かれる。要するにまったく何も分からなくなる。そこでいったん、文もま た條理に整斉していることを示し、それを十分に吟味した上で、梅園指定の読みに帰るのが読解上の 妥当な経路であると考えた。十回読んだら十回とも違う読みになるような不規則な読み方に、そのよ うに読まねばならぬという強制力はない。まさに「我、思ふ所は心のゆくに任せて書つけ侍りぬ」で あって、そのような読みからは、一度は自由にならねばならない。(三枝博音著『三浦梅園の哲学』 所収の玄語の訓読は、梅園の読みの指示に極めて忠実である。) 18.「故に」「而して」「是を以て」などは、特に文中に残す必要がないと判断した場合、あるいは、 編集の都合で文中に残すことができなかった場合は、行末に付け、禁則処理で言うぶら下がり処理と した。ただし、その語から項目が新たに変わる場合は、行頭に置いた。 19.視覚的な対称性を優先するために、ときに不自然、不統一な読みが為されている場合がある。 「彼」と「彼れ」、「以て」と「以って」、「自から」と「自ら」、などになっている場合などであ る。 20.例話などに用いられる白丸の傍点は、通常の句読点に改めた。 21.本資料と連携する電子データでは、空白行や目次、図名にも行番号が振られている。検索上はこ の方が便利なのであるが、この印刷資料では特に必要がないと思われるので削除した。 22.印刷版の誤字は、ほぼ訂正されている。 23.全編の読みは五郎丸延(ごろうまる ひさし)氏が担当したが、条理語に関しては、北林がその 読みを採用しなかった場合がある。読みに不自然さがあるとすれば北林の責任である。