注意:以下の末木剛博氏の論文は、日本哲学会第44回大会特別報告:哲学35
所収のものである。記号表記については、著者の意図を十分伝え得ない可能性
があるので、同会報を入手されたい。転載に当たってはご本人の許可された管
理経路を経ている。無断で、この論文の一部もしくは全部を転載することは禁
止する。引用はネット上の常識の範囲で許可する。なお、記号表記を正しく表
示するため、この論文は固定長フォントで読む必用がある。

西田幾太郎と三浦梅園

末 木 剛 博

0 序

0・1 西田幾多郎の思想は『善の研究』にはじまり、「哲学論文集・第七」
に至るまで二十冊近くの膨大な著書として、殆んど余す所なく表現されて居る。
0・2 この四十年近くに及ぷ厖大な著書は一方で様様な多様性を示して居る
と共に、他方では極めて顕著な一貫性を示して居る。それは自覚の諸段階として
統一的に見ることができる。彼の思想は最初から最後まで「自覚の体系」である。
0・2・1 まず、『善の研究』においては
「自覚とは部分的意識體系が全意識の中心に於て統一せらるる場合に伴う現象
である」(『全・一』P.183)
と言う。あるいは
「自覚は反省に由つて起る」(同上)
と言う。簡単に言えば、意識の全体と部分との関係によって意識自身を反省し、
自己を対象化して見てゆくのが自覚である。
0・2・2 次に中期の「一般者の自覚的體系」において、
「私は意識の志向牲といふことから出立する代りに、自覚性といふことから出
立しようと思ふのである」 (『全・五』P.454)
と言う。これは現象学的方法に対決して、方法論としての「自覚」を主張するも
のである。
0・2・3 さらに最晩年の『哲学論文集第六』においては、「世界は我々の
自己の自覚に於て自己自身を映すのである、自覚するのである」(『全・十一』
P.86)
と言うが、これは世界の構造としての自覚を主張するものである。
0・2・4 このように初期・中期・後期の全体を通じて「自覚」または「自
覚性」が一貫した原理となって居る。そしてその自覚が次第に進んでゆくことに
よって、思想の形態が次々に変貌してゆく。それは自覚の諸段階の様態である。
つまり彼の全思想は一箇の自覚の体系と解しうるのである。
0・3 しかしこの自覚の体系は晩年(後期)において完成するのであって、
それ以前の初期・中期の思想は完成の前段階であり、その準備である。
0・3・1 したがって、彼の思想を代表するものは晩年の諸著作である。具
体的に言えば、『哲学の根本問題・続編』から『哲学論文集第一』乃至『哲学論
文集第七』の八冊である。
0・3・2 この晩年の八冊ははぼ同じ思想をもち、一つの体系を種々なる方
面から論じたものであるが、それでも十数年の間には多少の変化があるのはむし
ろ当然と言うべきかもしれない。
0・3・3 しかしこの小論では後期思想を、その基礎となって居る『哲学の
根本問題・続編』を中心として論じてゆく。
0・4 西田の全思想は一箇の自覚の体系であるが、それは三段楷を成して居
る。即ち
〔1〕、初期の「純粋経験」は自覚の出発点としての意識の直接態または即自
態である。それは従来の用語で言えば、「主観的観念論」である。
〔2〕、中期の「場所」は自覚の発展した段階である。意識が自己分裂して自
己が自己を見る時、見る方の自己(述語面)が見られる自己(主語面)を包む
全体となるのが場所である。それは従来の用語で言えば、客観的観念論である。
〔3〕、後期の「絶対弁証法」では判断の述語面と主語面とを繋辞が結びつけ
るように、または推論式の大語面(一般的限定)と小語面(個物的限定)とを
媒語面が結合するように、自覚が三項関係となり、無の媒介者が主観と客観と
の両極を対立のままに結合する。それは単なる意識の自覚ではなく、絶体無な
る世界の自覚である。従来の用語で言えは、それは存在論であり、実在論であ
る。
0・4・1 小論ではこの自覚の第三段階の「絶対弁証法」の基本的構造を考
察しようと思う。
0・5 西田の晩年の絶対弁証法は、「弁証法」と名づけるように、ヘエゲル
(Hegel)弁証法を念頭に置き、これと対決する形で西田自身の思想を特徴づける
ものである。
0・5・1 へエゲルの「過程的弁証法」(『論・六』、『全・十一』 P.188、
その他)に対して西田の絶対弁証法は過程を包む「絶対無の場所」(『全・十一』
P.73)の論理であり、過程ではない「全体」(『全・十一』P.210)の論理である
と同時に「歴史的実践の世界の」(『全・十一』、P.169)論理である。
0・5・2 かかる論理に最も近いものとして西田は「仏教の般若の思想」
(『哲・論七』、『全・十一』P.399)を挙げて居る。
0・5・3 それと同時に、西田は自己の絶対弁証法を日本独特の論理と考え
ても居る。日く、
「日本には日本の論理がなければならない」(『哲・論・六』、全・十一、
P.188)。
そしてその「日本の論理」が彼の言う「絶対弁証法」だと言うのである。
0・6 この小論は西田の晩年の論理たる「絶対弁証法」が日本固有の論理で
あるか否かを検討しようとするものである。
0・6・1 その為に先ず所謂「絶対弁証法」の骨格を『哲学の根本問題・続
編』によって概観する。
0・6・2 そして次にそれを、西田とほとんど関係のない日本の思想と対比
させてみる。若しそこに共通の構造が析出されるならば、それこそ日本固有の特
性であり、西田のなかの日本的なものと言うことができるであろう。その対比の
相手として此処に選んだのは三浦梅園の『玄語』である。
0・6・2・1 対比の相手として梅園の著書を選んだ理由は、第一に、西田
は梅園からはとんど影響を受けて居なかったと考えられること、第二に梅園の
『玄語』は日本人が日本文化のなかで独力で創建した最初の論理思想たること、
その意味でまぎれもない「日本の論理」であること、この二つの理由による。


1 西田の絶対弁証法の概観


1・1 後期の著書『哲学の根本問題・続編』において定着した西田の自覚の
体系は意識的自我の自覚を越えた世界の自覚である。
1・1・1 中期の思想は意識的自我の自覚に止まって居り、それを越えるも
のではない。即ち「前書〔『哲学の根本問題』--未木注〕の「私と世界」に於
いては尚自己から世界を見るといふ立場が主となつていたと思う。従つて客観的
限定といふものを明にするのが不十分であった。」(『根・続』、『全七』、P.
203) と西田自身反省して居る。そしてこの主観にとどまる自覚を越えて、主観
を包む世界自身の自覚に達したのが後期の「絶対弁証法」である。
1・1・2 世界の自覚というのは、個人的自我の意識を包越するような全体
を考え、その全体のうちに自我を考えてゆくことである。即ち「我々の個人的自
己というものは自己自身を限定する世界の個物的限定に即して考へられるものに
過ぎない」(『根・続』、『全七』P.203)と言われるのが世界の自覚である。
1・1・3 自我の意識からこのような世界の自覚に進むにはどのような道を
たどればよいのか。--その点については論ずべき事が少なくないが、この小論
では不問に附する。ただ、自我を包越する世界の立場に立つことを認めて、その
上で考察を進めてゆく。

1・2 世界はすべてを包越する世界である。即ち「真の現実の世界は我々を
包む世界でなければならない」(『根・続』、『全七』P.217)と言われる。

1・3 かかる世界を考えるには論理の立場から見て行かねばならぬ。即ち
「真の現實の世界を論ずるには、私は論理から出立せねばならないと思う」
(『根・続』、『全・七』P.218)と言われる。
1・3・1 かかる論理は弁証法的論理であるが、それは主観的に世界に附与
される形式ではなく、世界自身の有つ説明原理である。即ち「真のディアレクテ
ィケーは實在が自己自身を説明する途でなければならない」(『根・続』、『全
・七』P.218)と言われる。
1・3・2 このように論理は世界に内在する形式であるが、しかし所謂「実
念論」ではない。実念論は論理の形式を認識しようと認識しまいと、それには拘
らず、論理の形式が客観的に存在するのだと主張する。しかし西田の場合には、
論理は世界が世界自身を説明し、従って世界が世界自身を自覚してゆく為の形式
である。従って世界の自覚が無ければ論理はなく、又論理が無ければ世界の自覚
はない。
1・3・3 したがって西田の思想が世界の自覚の体系である限り、それは論
理の体系でもある。即ち
「私の立場は論理の立場である」(『哲・論七』、『全・十一』、P.351)
と彼が言う所以である。
1・3・4 その意味で西田の自覚の体系は一種の論理主義である。決して体
験本位の神秘主義ではない。そしてこの論理主義は既に中期において確立して居
るものである。即ち中期の著書『一般者の自覚的体系』のなかで、
「哲学は何処までも論理的立場の上に立たねばならない」(『全・五』、P.139)
と明言して居る。

1・4 このように自覚的な論理によって貫かれた世界は決定論的な世界と言
うわけではない。むしろこの世界は非決定論的であり、そこに自由意志の介在す
る余地がある。即ち
「我々の真の自覚は意志自由にあるのである」(『哲・根・続』、『全・七』
P.422)あるいはまた
「我々は自由意志と考へられる」(『哲・根・続』、P.421)と言われる。
1・4・1 この自由意志によって自我は世界を肯定することも否定すること
も出来る。そこに善悪の区別が生ずる。即ち
「現実の世界を越えて而も之を肯定する行為が善と考へられ、之を否定する行
為が悪と考へられる」(『哲・根・続』、『全・七』、P.422)
のである。そして善も悪も世界のなかの自我の由由意志に依存することであるか
ら、
「根本悪は自由意志そのものの本質である」(『哲・根・続』、P.422)
と極言されもするのである。
1・4・3 このような自由意志を有つ自我は「人格」と言われる(『哲・根・
続』、『全・七』、P.226)。そして人格による営みは「行為」と言われる(同上)。
したがって世界は我々の人格的な行為を不可欠な要素として有つ世界であり、こ
れを「社会的・歴史的」な世界と言う。即ち
「人格的行動は社会的・歴史的事實でなければならない」(『哲・根・続』、
『全・七』、P.229)
と言われる。
1・4・4 かかる社会的・歴史的世界の不可欠の要因たる我々の人格的行為
は我々自身の自由意志に依るものではあるが、単なる意識現象ではなく、意識を
越えて世界に働きかけるものである。そしてこの我々の意識と世界とを結ぶもの
が「身体」である (『哲・根・続』、『全・七』P.282、P.287)
1・4・5 この我々の自由意志に基づく身体的行為は、もと上り物理的・生
物的な行動であるが、ただそれだけではない。それは表現的な行為である。
1・4・5・1 「表現」とは何か。
「表現的なるものはそれが物として有るという以上の内容を有ったものでなけ
ればならない」(『哲・根・続』『全・七』、P.279)
と言われる。即ち表現は意味を附与された物である。
1・4・5・2 自由意志に基づく身体的行為はこのような表現であり、意味
を持つ動作である。
1・4・5・3 そして我々の行為によって形成されて行く社会的・歴史的世
界は単なる物理的・生物的世界ではなくて、表現的世界である。即ち
「客観的世界と考えられるものは表現的世界でなければならない」(『哲・根・
続』、『全・七』、P.281)
と言われる。これが具体的世界である。

1・5 かかる具体的な表現的世界を自ら説明する論理がこの世界の自覚の論理
であるが、それは単なる形式論理ではなく、一種の弁証法である。それを西田は
「具体的弁証法」(『哲・根・続』、『全・七』P.242) とも「絶対〔的〕弁証
法」(『哲・根・続』、『全・七』P.314、P.350、etc.)とも言う。
1・5・1 この絶対弁証法はへエゲルの弁証法を念頭に置いて、しかもそれ
と対決するものである。
1・5・1・1 西田の所謂「表現の世界」は具体的には社会的・歴史的世界
であるが、かかる世界の論理を最初に明瞭にしたのが他ならぬへエゲルだという。
日く
「ヘエゲルによって始めて社曾的・歴史的賓在の論理の途が開かれたと言うこ
とができる」(『哲・根』、『全・七』P.178)
その限りで、西田もへエゲルの論理を借りて、自らの立場を「弁証法」と名づけ
るのである。
1・5・1・2 しかし西田の弁証法はへエゲルのそれとは大きく異なって居
る。その相違点は種々挙げられて居るが、概括して言えば、ヘエゲルの論理は潜
在的実体が顕在化して行く有機的過程を論じたものに止まるのに対して、西田は
そのような潜在的実体をも否定し去るので、潜在から顕在への過程をもまた認め
ないのである。日く、
「へーゲルの概念といふのは尚有機的統一の意識を脱してゐない。・・・単な
る過程として自己自身を限定すると考へられるかぎり、それは尚真の絶対否定で
はない」(『哲・根・続』、『全・七』P.313)。
と言うのである。
1・5・1・3 それ故に、ヘエゲルの論理を「過程的論理」(『哲・根・続』、
『全・七』P.216)または「過程的弁証法」(同上、「全・十二、P.188)と名づ
け、それに対して西田自身の論理を「絶対弁証法」(『哲・根・続』、『全・七』
P.350、P.392、etc.)と名づけるのである。

1・6 現実の社会的・歴史的な表現の世界を支配するこの絶対弁証法の基本
的特徴はそれが世界の自覚の論理たることに基づいて定まる。
1・6・1 第一に、主観と客観との対立を媒介するものがなくては自覚は徹
底しない。
1・6・1・1 何故かと言えば、主観から直接客観へ行くことは出来ず、ま
た客観から直接主観へ移ることは出来ないからである。
1・6・2 この主観と客観とを媒介するものはそれ自身は主観でも客観でも
なく、しかも両者を包むものでなくてはならぬ。このような媒介者を「M」と記
し、「場所」または「弁証法的一般者」と名づける(『哲・根・続』、『全・七』
P.203)。それはまた客観でも主観でもないので「無の一般者」(同上、『全七』、
P.204)とも言い、「絶対無」(同上、『全・七』、P.207)ともいう。
1・6・2・1 このように根本に「絶対無の場所」を置くのは、ヘエゲルが
根本に「絶対精神」と名づけられる精神的実体を置いて、それの顕現化する過程
を論ずるのとはいちぢるしく異なって居る。西田の「絶対無の場所」は実体なく
して過程を包む全体である。即ち
「私の場所と言ふには、絶対無の場所として、単に過程的なる弁証法に對して
は之を包むという意義を有つて居るのである」(『哲・論・六』、『全・七』P.
73)と言われるのである。
1・6・2・2 かかる無実体の場所たる媒介者Mは「絶対無」とも名づけら
れるように、それ自身全く無限定なる全体である。敢てそれを限定し上うとすれ
ば、それはMの部分とはなるが、M自身ではありえなくなる。それ故にMは自己
矛盾的な全体である。(すべてを包む無制限の全体は自己否定をも含むので自己
矛盾に陥ることは「集合論の論理」として周知のことである。そして絶対無Mは
まさにかかる論理を含んだ全体であるが故に「無の一般者」であり、「絶対無」
である。)
1・6・3 この無限定的全体としての媒介者Mは一切を包む全体であるにも
かかわらず、それは無限定であり、絶対無であるから、非決定論的である。
1・6・3・1 したがってその内に在る個人は「自由意志」(『哲・根・続』、
『全・七』P.404)を有ち、その自由なる行為によって社会的・歴史的世界が絶え
ず新しく創造され続けてゆくことになる。即ち
「歴史の世界は創造的である」(『哲・根・続』、『全・七』P.413)
と言い、また
「弁証法的世界は創造し行く世界でなければならない」(同上、『全・七』
P.392)
と言うのである。
1・6・4 しかしMはかかる絶えず創造され行く歴史的世界を自己の部分と
して含みながら、しかもM自身は無限定なる基盤として、即ち「無底の底」
(『哲・根・続』、『全・七』P.393)として、「創造もされず創造もせない」
(同上、『全・七』P.393)ものである。
1・6・4・1 それ故、集合論的に見れは、絶対者Mは一切を包超する絶対
類(proper class)であるのに対して、創造され続ける社会的・歴史的世界はそ
の部分集合Ml〔文字注:l(Lの小文字)の文字高さはMの半分〕である。即ち、

Ml⊂M ・・・・(F1)〔文字注:上記〕
である。
1・6・5 それ故絶対弁証法の体系は言わば「重層的な内在論」というべき
構造である。
1・6・5・1 「重層的」と言うのは(F1)で示すように、無限定的全体
Mのなかに、部分集合Mlが重ねられて居るからである。
1・6・5・2 「内在論」と言うのはMが一切を包越し、一切がMの内に在
るといわれるからである。即ち

「(∀x)(x∈M)」・・・・(F2)

と考えられるからである。(なお、この式から自己矛盾が起るので、このMは絶
対無となる。)

1・7 次にこの絶対無Mはもともと媒介者であり、主観と客観とを連結する
ものである。
1・7・1 したがって絶対無の媒介者Mによって主観と客観とが結合するが、
それを西田は
「主観が客観を限定し、客観が主観を限定する主観客観の弁証法的合一の世界」
(『哲・根・続』、『全・七』P.206)
と言う。
1・7・1・1 この「主観客観の弁証法的合一」と言うことは後年になると
「相互補足性」という具体的な関係で説明されるようになる。即ち
「何処までも主客相互補足的な絶対辯証法的世界」(同上、『全・九』、P.37)
または
「何処までも相互補足的に矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界」
(同上、『全・九』、P.49)
または
「主客相互補足的な辯証法世界」(同上)
などと言われる。
1・7・2 この「相互補足性」というのは論理的に言えば肯定と否定との相
補性である。
1・7・2・1 この関係を明かにする為に、西田は主観と客観とをそれぞれ
絶対無Mの肯定面と否定面とに配置する。即ち
〔1〕 主観を「個物的限定」と言い(『哲・根・続』、『全・七』P.206)こ
れを「A」と既す(同上、『全・七』P.213)、そしてこれをMの肯定面と考え、
「+√M」〔文字注:Mは√の中に入っている。〕なる符号で示す(同上)。
〔2〕 客観を「一般的限定」と言い (同上、『全・七』、P.206)、これを
「A」と記す(同上、「全・七」、P.213)、そしてこれをMの育定面と考え
「-√M」なる符号で示す(同上)。
1・7・2・2 このようにして、主観Eと客観Aとは無なる媒介者Mの肯定
面と否定面とに配されて、紙の表と裏との如くに相補う関係に置かれる。
1・7・3 したがって世界のあらゆるものは主観Eと客観Aとの対(pair)
によって溝成されることとなる。
1・7・3・1 その場合、主観Eは無数の小主観 e1,e2, ・・・・・に分れ
(『哲・根・続』、『全・七』P.213)
したがって

E={e1,e2・・・・・・} ・・・・・(F3)

と考えられる。
1・7・3・2 客観Aについては『哲学の根本問題・続編』にはそのような
分化は見られないが、『哲学論文集第一』では、Aは無数の小客観 a1,a2,・・・に
分けられる(『全八』P.219)。したがって客観Aについても

A={a1,a2,・・・・} ・・・・・(F4)

が考えられる。
1・7・4 このように「哲学論文集第一」の主張を補って解すると、世界は主
観Eと客観Aとの直積と考えられる。これを西田は

+- M ie.A≡E

+- m ie.a≡e 〔文字注:上下の式の前にあるのは中括弧の略記号であ
る。〕
という符号で示している (『哲・根・続』、『全・七』P.220)。しかしM、A、
Eを集合と解すれば、右の関係は

M=E×A ・・・・・(F5)
={mij|mij=<ei,aj>} ・・・・・(F6)

と解せられる。〔文字注:ijの文字高さはmまたはeの半分〕
1・7・4・1 ここで、mij は絶対無の場所Mにおいてあるもの、即ち、
個物である。そして、mij を構成する小主観ei〔文字注:iの文字高さはeの
半分〕は個物(個人)の心であり、小客観ai〔文字注:jの文字高さはaの半分〕
は個物(個人)の身体である。
1・7・4・2 したがって個物(個人)mij は心身結合の状態にあるが、
それは絶対無Mの肯定面と否定面との相互補足的な結合なのである。
1・7・5 ここで相互補足性というのは、同一主語に関しては両立しない二
つの述語が、相違する別々の主語を取る時には、相互に他の必要条件となる、と
いう関係と解してよい。即ちこつの述語を「f」、「g」とすると、相互補足性
「C」は次のように定義できるであろう。

C(f,g)=df(∀x)~〔f(x)・g(x)〕・〔(∃y)f(y)〕
≡(∃z)g(z)〕 ・・・・・(F7)

1・7・5・1 いま「f」の代りに「ei」〔文字注:i の文字高さはeの
半分〕を、また「g」の代りに「aj」を置けば、個人の心身の相補関係が考え
られるわけである。即ち

mij=<ei,aj>
=C(ei,aj) ・・・・・(F8)

と解するのである。〔文字注:i,jの文字高さは、m,e,aの半分〕
1・7・5・2 ただし、個人のこの上うな心身相補関係は静止的状態ではな
く、不断に動き続けて居る。しかもそれは自由意志によって主導されるのである
から、身体に対して心が優位に立つ動きである。これが「行為」(『哲・根・続』、
『全・七』P.208) または「行為的直観」(同上、『全・七』、P.207)と言わ
れるものである。
1・8 個物(個人)はこのように絶対無Mのなかで心身結合的行為を営む。
そのような行為者としての多くの個人が相互に作用しあって現実の社会的・歴史
的世界 Mi が絶対無Mのなかに絶えず新たに作られてゆく。それが現実世界の
「創造」(前出)であり、「形成作用」(『哲・根・続』、『全・七』P.209)で
ある。
1・8・1 したがって絶対無Mの部分集合たる現実の社会的歴史的世界Mlは
Mの要素の一部が特殊な相互関係を結ぷことによって成立するものである。仮り
にその特珠な関係を「Rl」と記せば、

Ml={mli|(mli∈M)・Rl(mli,・・・・・mln)} ・・・・・(F九)

となる。これによって先にのべた(F1)の関係が成立し、「絶対無の限定の世
界」(『哲・根・続』、『全・七』P.208 )が成立する。しかもそれは諸々の個
人の相互作用を介して成立するのである。
1・8・2 しかしこのようにして作られた現実の社会的歴史的世界 Ml は
その内に居る諸々の個人に影響を与える。今仮りに、特定の世界 Ml を特教づ
ける性質(特性)を「h」とし、Ml が h を有つことを

h〔Ml〕=df(∀x)〔(X∈Ml)⇒h(x)〕

と定義すれば、必然的に

(∀x)〔(X∈Ml)⇒(h〔Ml〕⇒h(x))〕

となる。これが現実世界から個人への影響関係である。
1・8・2・1 かくて絶対無の場所Mのなかで、個人から世界へ働きかけ、
世界から個人へ働きかけるという相互作用が成立する。そしてそのような相互作
用によって現実世界の歴史が動いてゆく。このような構造について『哲学の根本
問題・続編』ではまだ充分に論ぜられて居ないが、後の著書ではこれを「作られ
たものから作るものへ」という言葉で定式化して、歴史論の中心に据えて居る
(『哲・論・三』、『全・九』、P.130、etc.)。
1・9 絶対無Mの全体は無限であるから、M自身のうちに自身を映し、自身
と相似な(一対一対応する)部分を含むはずである。それは自己写象の体系であ
る。
西田自身の言葉を引こう。日く
「世界は映し映される世界である、自己自身を映すと言うことから世界が始ま
る」(『哲・論・六』、『全・十一』P.118)
1・9・1 しかもこの自己写像性は個人的自我にも見られる。自我は個物で
あるが、意識を有ち、自覚する。その自覚にあたって世界の全体(したがって絶
対無Mの全体)を意識の内に映すので、その限りで自我は世界の写像であり、小
宇宙である。日く、
「我々の自己の自覚は即ち世界の自己表現であり、世界の自己表現は即ち我々
の自己の自覚である」(『哲・論・六』、「全・十一」 P.133)。
1・9・2 この自己写像性は次のように定式化される。いま集合または類A
とBとの一対一対応(相似牲)

を「A~B」と記せば、〔文字注:~ は、=の上の線が波形になったもの〕


Ⅰ、世界(絶対無)Mの部分MlがMの自己写象であることは

(Ml⊂M)・(Ml~M) ・・・・(F12)

となる。
Ⅲ。個人的自我 mh が M の自己写象であることは

(mh∈M)・(mh~M) ・・・・(F13)

となる。
以上が西田の後期思想の骨格である。


2 梅園との比較


2・1 西田は梅園からははとんど影響を受けて居ない。しかも両者の思想体
系には顕著な近似性が見られる。その近似性、即ち両者の共通性格、は明かに欧
米からの影響に依るものではなく、東洋の、または日本の、固有の発想法であり、
西田のいう「日本の論理」の少なくとも一面を明らかにするものと思われる。
2・1・1 もとより、両者の間には顕著な相違も見られる。それについては
後に論ずる。ここでは、両者の近似点を順にあげて行くこととする。

2・2 思索の出発点について。両者は共に懐疑から出発している。
〔1〕、梅園日く、(原文は漢文、書下しは筆者、以下同じ)
「晋〔梅園の名--末木注〕、垂髫ヨリ触ルル所總テ疑シ。・・・晋ノ疑フヤ、
是ニオイテ已ニ甚ダシ。」 (『玄語・例旨』、『全・上』、P.2、下)。
〔2〕、西田日く、
「疑いうるだけ疑って、凡ての人工的仮定を去り云々」(『善の研究』、
『全・1』、P.47)
又日く、
「徹底的な懐疑的自覚〔は〕・・・哲学と言う学問そのものの方法でなければ
ならない。」「『哲・論・六』、『全・十一』、P.152)。
2・3 真理の標準は両者共に経験である。
〔1〕、梅園日く、
「天地ニ徴ス」(『玄語・例旨』、『全・上』、P.10上)。
(この一文の意味は「正しい認識は経験的自然界によって実証すべきである」
の意である。)
〔2〕、西田日く、
「私は徹底的実証主義者である」(『哲・論・六』、『全・十一』、P.7)
(ただし、この実証主義は単なる「感覚的実証主義」ではなく、所謂「行為的直
観」による実証主義である(同上)。
2・4 体系の基礎について。両者共に無限定的全体を根底に置く。

〔1〕、梅園日く、
「一、萬物ヲ含ム」(『玄語・本宗』、『全・上』P.24、上)
(これは上記の (F2)の主張に等しい。したがってこの「一」は積極的に特
徴づけようとすれば矛盾に陥るので、無限定的全体として認める以外に認める方
法はない。即ち『玄語圖』「丁未浄本」ではこれを「一不上圖」と言い、空白の
ままにしてある (『玄語図全影』一三四番)。もっとも、『玄語』では儒教の
伝統的用語に従って、これを「一元之気」とも言って居る。日く、
「本是レ一元之気ナリ」 (『玄語・天冊』、『全・上』、P.64、下)
(ここに「一元の気」というのは、単なる物質的原理ではなく、一切の原理で
ある。即ち「一なる全体」の意である。日く、
「物ノ全體ヲ察ス」(『玄語・例旨』『全・上』、P.6)。
〔2〕、西田日く、
「物を全體との関係に於て見ることでなけれはならない、絶対の立場から見る
ことでなければならない」
(『哲・論・四』、『全・十』P.176)。
(この全体または絶対はすべてを「包む」ものであるが、それを積極的に規定す
ることは出来ないので、その限りで「絶対の無」である。しかし又。一切を包含
し、一切を成立せしめる限りでは「絶対の有」でもある。日く
「我々は絶対にそれに触れることができないといふ意義に放ては、それは絶対
の無である.しかしそれによって世界が成立するという意義に於て、それは絶対
の有である」(『哲・論・二』、『全・八』、P.430)
これを要するに梅園も西田も無限定的全体を体系の根源とする。
2・4・1 このように、一切を無限定的全体の内に包含して考えるのである
から、梅園の体系も西田の体系も内在論であり、一種の全体主義である。
2・4・2 したがって、両者ともに自然界から離れた超越的絶対者を認める
超越論とは正反対の立場に立つ。
2・5 体系の基本的横造として、両者共に自己写像の体系であり、一全体の
なかに無数の小全体(小宇宙)を有つ体系である。それは三つの特性をもつ。
〔1〕大宇宙が小宇宙を包越し、従って小宇宙は大宇宙の部分である。
〔2〕小宇宙は大宇宙の部分でありながら大宇宙が全体であるのと同様に一箇
の小全体である.
〔3〕大宇宙は他のものに依存せず、従って完全に独立して居るのに対して、
小宇宙は(1)大宇宙に依存し、また(2)他の小宇宙に依存して居る。
このような特性を有つ全体・部分(または全体・個物)の構造を西田は「場所」
と名づけるが、梅園の体系も場所的である。

2・5・1 即ち

〔1〕 梅園日く、

〔1・1〕「大ハ廼(スナハ)チ能ク小ヲ容レ、小ハ廼チ能ク大ニ居ル、大ハ
廼チ能ク給シ、小ハ廼チ能ク資ル」(『玄語・例旨』『全・上』P.3、下)
ここで「大」というのは「大物」とも言い、「天地」とも言い、大自然を意味
する全体である。これに対して「小」は「小物」とも言い、大自然のなかの個々
の自然現象である。人間も小物の一種とされる。右の一文の意味は「大宇宙たる
大自然は一切の小宇宙たる自然現象を自己の内に包み、小宇宙たる自然現象は大
宇宙たる大自然の内に置かれてある。そして大宇宙は存在を小宇宙に与え、小宇
宙は大宇宙から存在を受ける。」という意である。これは先に挙げた第一の特性
たる包越関係を述べるものである。

〔1・2〕 次にまた日く、
(1)「天地ハ一全物ナリ」(『玄語・天冊』、『全・上』、P.59、上)
(2)「小物ハ則チ大〔大物--未木注〕ニ資り、資レバ則チ小〔小物--未
木注〕モ亦全ナリ」(同上、『全・上』、P.50、上)。
この二文を合すれは、大宇宙(大自然)も一全体であり、小宇宙(自然現象)
も共にそれぞれ小全体であることを主張するものであり、先に挙げた第二の特性
を示すことになる。
〔1・3〕 また日く、
「大物ハ自立自行シ、小物ハ依立依行ス」(『玄語・天冊』、『全・上』、P.61、
上)
この一文は大宇宙が独立せるものであるのに対して、そのなかの小宇宙は他に
依存して存在すると言うのであり、先に挙げた第三の特性に該当する。なお、小
物の「依立依行」は二面をもち、一方では大物への依存であり、他方では小物相
互の依存である。大物への依存については、先にあげた「容・居」および「給・
資」の関係で明らかである。小物相互の依存については、火と水との例を引いて
次のように述べて居る。
「水ハ火ヲ以テ成り、火ハ水ヲ以テ成ル、是レ相反シテ相依ル也」(『玄語・
小冊』、『全・小』、P.201)。
したがって、小物(小宇宙)は(1)「容・居」・「給・資」に依って大物(大
宇宙)に依存し、(2)「相反相依」によって小物相互に依存しあうこととなる。

〔2〕 西田の「場所」についての論述は前節の説明でほぽ尽きて居るが、梅
園に合せて整理すると次のようになる。

〔2・1〕 大宇宙と小宇宙との包越関係については、
(1) 絶対無Mが一切を含む(F2)。故に絶対無Mは大宇宙である。
(2) 絶対無 (大宇宙)Mに含まれるあらゆる部分又は個物はMと相似
(一対一対応)である (F12、F13)。したがってそれらは小宇宙である。
(3) したがって大宇宙が無数の小宇宙を包越する。
〔2・2〕 大宇宙は一全体であり、それに包越される無数の小宇宙もそれぞれ
小全体であることについては、
(1) 絶対無(大宇宙)Mは一切を含む(F2)。故にそれは一全体である。
(2) Mの無数の部分また個物(小宇宙)はMと相似である(F12、F13)。
故にそれら小宇宙は大宇宙と同様にそれぞれ小全体である。
〔2・3〕 独立・依存の関係については、
(1) 絶対無(大宇宙)Mはあらゆる部分を包越し(F1)、またあらゆる
ものを含む(F2)。それ故大宇宙Mは何ものにも依存せず、独立して居る。
梅園流に言えば「自立・自行」である。
(2) 大宇宙への小宇宙の依存性については、部分又は個物がそれらを包越
する全体から影響を受ける((F11)のMlをMと解すればよい)。
(3) 小宇宙相互の相互依存性については、(F9)のRl〔文字注:lはL
の小文字で文字高さはRの半分〕がこれに該当する。

2・5・2 このように梅園も西田も共に場所的な内在論を唱える。そしてそ
れは単純な内在論と違って、大宇宙のなかに小宇宙が入れ籠になって居るという
構造であり、前節で用いた用語で言えば「重層的内在論」である。「場所」とは
重層的内在論のことである。
2・5・2・1 大宇宙・小宇宙という構造はライブニッツの単子論にも見ら
れる。しかしライブニッツでは、
(1) 大宇宙は無数の小宇宙の集まりにすぎず、それ以上には何の意味もない。
したがってその大宇宙は独立・自立するものではない。また(2)無数の小字宙
は相互に依存関係を有たず、いずれも独立の実体である。
(3) したがって彼の単子論は無数の実体が相互に独立して居る超越的な多元
論であり、場所の重層的内在論とはいちぢるしく達う。
2・5・3 重層的内在論を説明する為に、梅園も西田も共に円の内に円を描
くという形の形式を用いる。即ち
〔1〕 梅園は『玄語』各巻の終りに図式的な説明を附加して居るが、それは
僅かな例外を除いて総て円の複合(特に同心円)で表現される。
〔2〕 西田も『哲学の根本問題・続編』ではもっげら円の複合(特に同心円)
を以て「場所」の構造を説明して居る。これを文章で表現して「世界の進展は
圓の中に圓を描くと考へられる」(『哲・根・続』『全・七』、P.208 )、
「眞の辯證法的過程には・・・圓の中に圓が限定せられるという意味がなけれ
ばならない」(同上、『全・七』、P.259 )、「我々の世界は・・・言はば圓
の中に圓を限定する」(同上、『全・七』、P.264)
等と言う。
2・5・4 かかる場所の重層的内在論は時間に対する空間の優位であり、言
はば空間的世界観である。梅園の体系も西田の体系もかかる意味の空間的世界観
たる点で一致して居る。
2・5・5 かかる空間優位の場所の重層的内在論は部分(又は個物)に対し
てそれを包越する全体が優位に立つという構造をもち、一種の全体主義である。
梅園も西田も共にかかる意味での全体主義である。
2・5・5・1 重層的内在論は部分(又は個物)に相対的な独立を小宇宙と
いう形で認めて居るので単純な全体主義ではない。しかし部分または個物が全体
に優先することを決して認めないのであるから、やはり全体主義たることに違い
はない。梅園も西田もその点では判然として居て曖昧さはない。即ち、
〔1〕 梅園日く、
「其ノ一斑ヲ窺ッテ、而シテ未ダ其ノ全體ヲ見ザル者ハ、何ゾヤ、未ダ條理ノ帰
スル所ヲ得ザル也」(『玄語・例旨』、『全・上』、P.6、下)
〔2〕 西田日く、
「全體と言うのは場所を意味するのである」(『哲・論・六』、『全・十一』、
P.210)
または
「私は色々の場合に、「全体」といふ論理的表現を用ひた方が上いと考へるの
である」(同上)。
これらの文章から言えば、「場所の論理」は「全体性の論理」と言ってよいこと
になる。
2・5・5・2 かかる全体性の論理の基本的な構造は前節の(F11)で示
される。即ち個物(個人)の性質が常に自己の所属する全体の性質によって定ま
り、したがって個物(個人)は全体の情況に順応する、という関係である。
2・5・5・3 したがって「全体性の論理」は実践的には「情況の合理性」
と言うことになる。
2・5・5・4 かかる全体性の論理にしても情況の合理性にしても伝統的な
欧米思想にはほとんど見られないものである。最近の傾向は兎も角として、伝統
的な欧米思想にあっては、個別が全体に優先し、原則が情況を圧倒してきた。全
体性の論理に対しては「(個別の)対立性の論理」が支配的であり、情況の合理
性に対しては「原則の合理性」が支配的であったのが欧米の伝統である。そして
梅園も西田もかかる欧米の論理とは正反対の論理を打立てたのであり、それがま
さに西田の言う「日本の論理」である。
2・6 このように梅園と西田とに共通な基本構造は、場所の重層的内在論で
あり、それに基づく全体性の論理であるが、その論理の一般的特性は梅園の「一
即一一」の條理であり、西田の「絶対弁証法」の論理である。
2・6・1 梅園のいう「條理」は論理のことである。そしてその論理は世界
の構造を解明する鍵として客観的妥当性を有つと言われる。このように論理を主
観的のものと見ず、客観的妥当性を有つものと見る点で梅園と西田とは一致して
居る。即ち
〔1〕 梅園日く
「条理ハ則チ天地ノ準也」(『玄語・例旨』、『全・上』、P.10、下)
〔2〕 西田日く、
「論理は我々の自己の主観的形式ではない。論理の立場とは、主観の対立を越
え、主客の対立、相互關係も、そこから考えられる立場でなければならない」
(『哲・論・六』、『全・十一』、P.166)。
2・6・2 かかる客観性をもつ条理又は論理の基本形式は西田の言葉で言え
ば「絶対矛盾の自己同一」であり、梅園流に言えば、「一即一一」である。両者
は極めて近似した形式である。即ち
〔1〕 梅園日く、
(1)「一ハ即チ一一ナリ、一一ハ則チ一ナリ」(『玄語・本宗』、『全・上』
P.20、下)。
(2)「其ノ一ナルヤ全ナリ」(同上)。
(3)「一一ナル者ハ陰陽ナリ」(『玄語・例旨』、『全・上』P.6、下)。
「ソレ陰陽ハ對待ノ一一ナリ」(同上)。
これら一連の文章を合せて解すれば、一つの全体があり、それが二つの一一に
分れる。それら二つの一一は対立(対侍)するものであり、否定と肯定(陰陽)
との関係に立つ。そしてこれら対立する二つの一一が合すると元の一全体とな
る」ということになる。この構造をまた次のようにも定式化して居る。日く、
(4)「反シテ全ヲ成ス」(『玄語・本宗』、『全・上』、P、24、上)
この構造を集合論の概念で解釈すれば、一集合(全体)Aを二分して部分集合
Bとその裕集合A-Bとに分ければ、もとのAはこの二つの部分BとA-Bとの
合併となる、ということである。即ち

A=B∪(A-B) ・・・・(F14)

となる。かかる分割は一つの全体Aを二つの小全体Bと(A-B)とに分けるこ
とであるから、それら二つの小全体もまた各二つの部分に分割される。この分割
は限りなく続けられる。これを
(5)「剖析無窮ナリ」(『玄語・天冊』『全・上』P.47、上)
と言う。つまり二分法が無制限に続けられるというのである。何故無制限に分割
できるかと言えば、分割された諸部分がそれぞれ小全体であり、各小全体はもと
の一全体の相似な写像として、二分割を含むからである。
〔2〕 西田の論理の根本形式は次のように言われる。
(1・1)「世界・・・それは肯定面即否定面、否定面即肯定面として矛盾の統
一と考えられる」(『哲・根・続』、『全・七』、P.208)
又日く、
(1・2)「この世界は絶対に相反する両面の自己同一面でなければならない」
(同上、『全・七』、P.381)。
ここに「絶対に相反する両面」としての「肯定面」と「否定面」とは前節で述
べた上うに、絶対無Mの肯定面+√M〔文字注:Mは√の中にはいる。〕たる個
物的限定(主観)と、その否定面-√Mたる一般的限定(客観)Aとである。そ
の両面の「矛盾の統一」というのはAとEとがMのなかで肯定・否定として対立
しながら、両者合併してMとなる、ということである。したがってこれを絶対無
(無限定的全体)Mの側から言えば、Mは肯定的部分Eと否定的部分Aとに分化
してしかもそれらを合併統一して居る事となる。即ち
(2)「Mは分裂の統一として唯媒介項として考へられるのみである」(『哲・
論・一』、『全・八』、P.253)
そしてこのMの分裂と統一はそれと相似の部分集合Mlにも保存され、Mlの部分
集合にも保存されて無制限に続くのである。--西田はこのようなM・E・Aの
構造を「矛盾の自己同一」(『哲・論・一』『全・八』、P.11)。「絶対矛盾的
自己同一」(『哲・論・三』、『全・九』、P.120)等と呼ぶ。
2・6・3 西田の「(絶対)矛盾的自己同一」が梅園の「反合成全」と極め
て近似した構造であることは、右の叙述でほぽ明らかであると思うが、念の為に
対応をつけて示せば次のようになる。



【西田】                -√M=否定面=E=一般的限定---+
                      /                                    |相
                    /                                      |互
    M(絶対無)--                                        |限
          ↑        \                                      |定
          |          \                                    |↑
          |            +√M=肯定面=A=個物的限定---+|
          |                      ↑                          |
          |                      |                          |
          |                      ↓                          |
【梅園】  |            「一」=  陰  =  否定-------+↓
          |          /                                    |相
          ↓        /                                      |反
    一(一元気)--                                        |相
                    \                                      |依
                      \                                    |
                        「一」=  陽  =  肯定-------+


3 結 論


3・1 西田の晩年(後期)の体系は一口に「絶対弁証法」と言われるが、そ
れは自覚の体系である。自覚の窮極において、相補的な相反的二要因を包越する
一全体に達するのである。
3・1・1 それが「自覚の論理」であって「無基体的」な「絶対無の論理」
である点で大乗仏教の論理と通ずるものがある事は西田自身が明言する通りであ
る(『哲・論・六』、『全・十一』P.86)。
3・2 しかし、それは仏教と通ずるだけではなく、仏教以外の日本の思想と
も近似した一面を有ち、それ故に彼の思想は彼自ら希求していた「日本の論理」
の性格を有つと言ってよいであろう。
3・2・1 小論は西田の晩年の思想がその上うな「日本の論理」の特性を有
つことを、三浦梅園の『玄語』と対比して、明らかにし上うとした試論である。
3・3 梅園および西田に見られる「日本の論理」の根本的特性は何か。--
それは「全体性の論理」たる所にある。
3・3・1 全体性の論理の特性を挙げれば次の如くである。
〔1〕それは重層的な内在論である。--これが根本の特徴である。
〔2〕それは自己写像の体系である。--これは重層性を機能の方面から見た
ものである。
〔3〕それは諸存在を同時的並存的に包摂する空間的な体系である。--これ
は内在論を機能の方面から見たものである。
〔4〕それは相対立する諸要因を相補・相依の形で融和して包摂する全一的体
系である。
〔5〕それは部分または個別を全体の情況に順応させる情況の合理性である。
--これは「全体性の論理」の実践論である。
3・3・2 伝統的な欧米思想の根本にあるものはこの全体性の論理とは正反
対のものであり、個別が全体に優越する「(個別的)対立牲の論理」である。
3・3・3 日本人の行動が情況の合理性に従って居ることは、政治、経済、
文化のあらゆる面で顕著に見られることであるが、その基礎には全体性の論理
がある。梅園も西田もその点に思い到ったのである。
3・4、梅園も西田も全体性の論理を考えた点では甚だ近似して居る。しかし
両者の間には相当の相違もある。
3・4・1 その相違の主要な点を挙げると次の如くになる。
〔1〕 梅園の体系は自然界の全体性の論理である。--人間は自然界の一
部とされるにすぎない。
〔1’〕 西田の体系は人間界(社会的・歴史的な人格の世界)の全体性の論
理である。--自然界は人間界から抽象して考えられたものに過ぎない。
〔2〕 梅園の体系は自然界の論理であるから、決定論的であって、個人の自
由意志の介入する余地が不明である。
〔2’〕 西田の体系は人間界の論理であるから、個人の自由意志を積極的に
認め、その基礎として非決定論(絶対無)を唱える。


(註)
西田幾太郎の著作は
『西田幾太郎全集』全十九巻、岩波書店、昭和二十三年に依る。『全・一』、
『全・七』等はそれぞれ『全集第一巻』、『全集第七巻』意である。

三浦梅園の著作は
『三浦梅園全集』上、下二巻、名著刊行会、昭和五十四年復刻による。『全・
上』P.213 上の如きは『全集』、上段の意である。
また『玄語図』は辛島詢士編『玄語図全影』、梅園研究所、昭和五十年に依る。


(すえき たけひろ・東京大学)




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