注意:以下の末木剛博氏の論文は「梅園学会報第7号」所収のものである。記号 表記については、著者の意図を十分伝え得ない可能性があるので、同会報を入手 する必要がある。転載に当たってはご本人の許可された管理経路を経ている。無 断で、この論文の一部もしくは全部を転載することは禁止する。引用はネット上 の常識の範囲で許可する。なお、記号表記を正しく表示するため、この論文は固 定長フォントで見る必要がある。

『玄語』の論理(1)--その方法論--
                            末 木 剛 博

『玄語』の論理的な側面を考察するのであるが、今回は方法論について論ずる。 『玄語』の方法論はその論理学と不可分に結びついて居るからである。

文中引用文献の略記号を下記に列挙しておく。 Z-『全集』、[上]-上巻、[下]-下巻、P-頁数、a-上段、b-下段。 G-『玄語図全影』(辛島詢士編)、N-図の番号 玄-『玄語』、多-『答多賀墨卿書』、『玄語』は全集所収本に拠る。

1.方法論の基本的構造

〔1〕『玄語』の方法論として広く人口に膾炙して居るのは、方法的懐旋と、反 観合一・依徴於正・捨心之所執の三原則である(多-Z、[下]、P89、a。岩 波文庫版 P16)。もっとも、『玄語・例旨』では「捨心之所執」という原則 は顕在的には述べられて居ないが、その主旨は随処に見られる。

〔2〕この懐疑と三原則とが『玄語』の方法論の根本であることには間違いない のであるが、それらは同じ重要性をもって並列されるものではない。先ず考えな くてはならぬのは、これらの基本的方法論には消極的なものと積極的なものとが あることである。次に考えるべきは、これら三原則に含意されてはいても、その まゝでは充分に明瞭になって居ない重要な方法論的概念が幾つか存在することで ある。

〔3〕いまこの二点を考慮にいれて『玄語』の方法論を整理してみると、ほゞ次 のように整理されるであろう。

(1)消極的方法論 --無反省に使用しかつ信用してきた日常的な思考法と通 念(既成観念)とを使用禁止すること。
(1・1)方法的懐疑 --既成観念への不信。
(1・2)捨心之所執 --既成観念の放棄。

(2)積極的方法論 --達観のための新しい方法の採用。
(2・1)反観合一 --反合(排中律)の論理法則の適用。
(2.1・1)剖析 --反合にもとづく二分法的分析。
(2・1・2)配偶 --反合による対立項の想定または発見。

(2・1・3)全観または合 --対立二項の綜合による全体的なものの想定。

(2・2)推観 --反観合一の補助として他我の認識の場合に用いられる類推法。
(2・3)旋転観 --対立項の一方から他方へ視点を移して、反観合一(および推観)を相対化すること。
(2・4)依徹於正 --新しく採用する観念・認識が妥当なものかどうかを確かめるための追跡検査。

2、消極的方法論

〔1〕梅園の出発点は懐疑にある。日常使いなれて居る諸々の既成観念を、それ らが果して妥当するものかどうかを検討すること、それが彼の方法的懐疑である (玄・例旨-Z、[下]、P2、b。多ーZ、[上]、P87、a。岩波文庫版P14)。

〔2〕この方法的懐疑の目的は、検討を経ない素朴な確信を捨てて、一つ一つ吟 味された観念によって認識を再構成することにある。認識とは明晰に構成された 観念の組織に依って世界を脈絡化することであるが、その為には、不用意に密輸 入された曖昧な観念の混入することを許してはならぬのである。このように曖昧 な観念の密輸入を厳禁するためには、既成の諸観念を一度全部挿き出してしまう 必要がある。これが彼の思考の出発点をなす方法的懐疑である。

〔3〕この方法的懐疑は二段階に分れて居る。
(1)懐疑 --既成観念への不信。
(2)捨心之所執 --既成観念の排除。
の二段階である。

〔4〕先づ、懐疑(疑)はすべての既成観念に対して不信の念を懐くことである。 既成観念は日常生活で無反省に使用されて居る為に、その妥当性について素朴な 確信をもってしまうが、これが認識を誤まらせる根本の病源だ、と梅園は考える。 それ故正確な認識を構成する為には最初の操作として病巣を判然と指摘しなくて はならぬ。「既成観念の不用意に信用する所に一切の病気の原因があるのだ」と 反省して、既成観念への素朴な確信をすべて禁止するのである。(Z、[上]、P 2、b以下。Z、[下]、P87、岩波文庫版P14)。

〔5〕方法的懐疑の第二段階は、この指摘された病巣を滌除(てきじょ)する操 作である。これが「捨心之所執」である(多-Z、[下]、P89、a。岩波文庫版 P6〕。それは「習気を離るゝこと」(同上)である。習気とは既成観念への素 朴な信用である。その素朴な信用をすべて排除して、既成観念を全部挿き出すの が、この「捨心之所執」という操作である。この操作によって観念の世界は空白 になるが、その空白の地盤に新しい方法によって新しい観念を順に積みあげてゆ くのである。

〔6〕梅園はこのように方法的懐疑から出発するが、これは日本の思想史・精神 史の上では全く稀有な態度である。しかし世界の思想史を見渡す時には、必ずし も珍しいものではない。たとえば、古い所で言えば、釈迦が大悟に達する動機と なったのは、「四門出遊」の説話に見られるように、人生の一切に対する深い懐 疑である。また古代ギリシャの懐疑主義は文字通り懐疑を以って思想の根幹とし て居る。この懐疑主義は近世フランスにも流行したが、懐疑を方法論として自覚 的に使用したのは言うまでもなく十七世紀のデカルト(Deskartes)である。

〔7〕デカルトと梅園とは時代も近く、懐疑の重要さに気づいて、それを意識的 に使用して積極的な認識に到達して居る点でもよく似て居る。実際『答多賀墨卿 書』の文章と『方法叙説』(Discours de la methode)と比較すると、一部には 驚くべき一致が見られる。

〔8〕しかし両者の一致は或る段階までであり、その先は大きく相違しても居る。 そしてその相違点に梅園の独自な特性が最も顆著に現われてくるのである。それ 故、いま両者を対比させてみたい。

(1)デカルト的懐疑との相似点
両者共に諸々の既成観念への素朴な信用を禁じ、それらを排除する。そして新 しい地盤の上に新しい観念の組織を構築する。

(2)両者の相違点
(2・1)懐疑の構造 (a)デカルトの懐疑はそれ自身のうちに論理的な推理を含む。(「すべて を疑う場合、疑うこと自身は疑い得ない。故に一切の疑いに依って疑う者と しての自我の存在が確認される」という論法)。
(b)梅園の懐疑は既成観念への不信と排除という否定的操作だけであり、 積極的な推理を含まない。

(2・2)懐疑の結果
(a)デカルトの懐疑は内在する推理の結論として、自我の存在を確認する。
(b)梅園の懐疑はすべての既成観念の排除の結果として、判断中止に到達する。
(2・3)懐疑の効用
(a)デカルトは結果として得た自我の観念から、自我中心・人間中心の世 界観を構築する。〔絶対者(神)の存在も自我の不完全性という前提によっ て推理されるにすぎない。〕
(b)梅園は懐疑の結果として到達した判断中止の空白のうちに、論理(反 観合一)と実証(依徴於正)とによって非自我中心的な経験的合理的対象界 を構築する。

〔9〕これを要するに、梅園の懐疑はそれ自身としては既成観念を排除して判断 中止に到る方法であり、消極的なものにすぎないが、しかしそれは次の段階の積 極的方法論(論理と実証)を実施するための不可欠の予備的手段として極めて重 要なものである。

三、積極的方法論(1)
-- 反観合一 --

〔1〕懐疑の消極的方法論の結果として判断中止の空白に到達するが、次の段階 ではこの空白の領域を明晰で厳密な諸観念によって順次埋めてゆくことになる。

〔2〕その為の方法が積極的方法としての次の二項目である。

(1)論理的手段たる反観合一、推観、旋転観。
(2)実証的手段たる依徴於正。

〔3〕したがって、彼の積極的方法は論理と実証との二本立てであり、その点で は、今世紀初葉のウイン学団(Wiener Kreis)が主張した論理実証主義(logical positivism)と近似した発想である。ただしその対比に関しては後に論ずる。

〔4〕積極的方法の第一たる論理的手段は先づ「反観合一」(反シテ観、一ニ合 ス)である。これは「反合」の論理をあらゆる部門に適用して、世界の全体およ び諸部分に統一的な脈絡(「條理」)を与えて全世界の認識(「達観」)に到達 することである。

〔5〕したがって反観合一について先づ二点を指摘して置く必要がある。
(1)反観合一はそれ自身では論理ではなく、論理(「反合」の論理)を使用 する方法である。
(2)反観合一の目的は全世界を合理的に認識すること〔「條理の達観」(Z、 [上]、P220、a)〕にある。

したがって、反観合一とは論理を駆使して合理的な世界認識に到達する手続きで ある。

〔6〕反観合一は反合の論理を使用することであるが、その「反合」または「反 合成全」(玄、本宗-Z、[上]、P20、a)とは排中律に該当する。それにつ いては後に更めて論ずるが、簡単に言えば、排中律とは

p∨~p ・・・・(F1)

という恒真式(tautology)である。(たゞし、「p」は命題、「~」は否定、 「∨」は選言を意味する。) または集合の論理でいえば、

I=(P∪¬P)・・・・(F2)

という式である。〔たゞし、「I」は全集合、「P」は一集合、「¬」は補集合 (否定)、「∪」は集合の合併・加法(選言に対応する)を意味する。〕反合は かかる排中律であり、反観合一はこれをあらゆる観念に適用することである。そ の場合、「反」とは(F1)でいえば否定しあう二つの命題(p,~p)のこと、 であり(F2)でいえば否定しあう二つの集合(P,¬P)である。そして「合」 とは(F1)では選言記号(∨)であり、(F2)では合併記号(∪)である。 したがって「反」と「合」とを合せれば、否定しあう二命題の選言命題としての 恒真式(F1)、または否定しあう二集合の合併としての全集合(F2)が成立 することになる。図示すれば次の如し。

【図1】                            【図2】

(F1)                            (F2)
                   反
                  /\                I  =  P∪¬P
                /    \              :  :    :
              /        \            :  :    :
            p     ∨    ~p         :  成    :
                   :                 :        :
                   :                 全        合
                   :
                   合
            |            |
              ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                   全
			 
	

この図示で明かのように、(F2)の集合論理を用いると、「反」と「合」と 「全」との三概念が顕在的に区別されるので、(F1)よりも便利である。した がって今後は主として(F2)を使用したい。

〔7〕反観合一はこの反合の原理(排中律)をあらゆる場合に適用することであ る。しかし反合が三つの部分から成立することに基づいて、反観合一は三種の方 法に再分される。すなわち、適当の一概念を集合Aとして設定すれば、

(1)剖析(分析)--集合Aを排中律に従って二つ否定しあう部分集合に分け る。これは二分法(dichotomy)の分類法である。

(2)配偶(対立項の発見)--排中律に従って集合Aに対立し否定する補集合 を見出す。

(3)全観(綜合)--集合Aとその補集合とを排中律に従って綜合し、両者を 含む全集合を想定する。

〔八〕反観合一のこの三方法を上記の(F2)に従って解明すれば、

(1)剖析(分析)とは集合Aを全集合Iと考え、それを相反する二つの部分集 合に分ける操作である。したがって(F2)の左辺Iから右辺へ移行する操作 である。かくて「剖析スレバ則チ一ニシテ二ナリ」(玄、例旨-Z、[上]、 p18、a)という構造が成立する。

(2)配偶(対立項の発見)は集合Aを(F2)の部分集合Pと考え、それに対 する補集合を見出すことである。したがってそれは(F2)の右辺の一項から 他の項を推定することである。(玄、例旨-Z、[上]、P10、a)。

(3)全観(綜合)は一集合とその補集合との和によって全集合を想定すること であるから、(F2)の右辺から左辺のIに移る操作である。これを「見全体」 (玄、例旨-Z、[上]、P6、b)、「全観」(多-Z、[下]、P100、b。岩波 文庫版P28、その他)等と言い、「二反合一」(玄、天冊-Z、[上]、P82、 a)などと言う。

かくて反観合一の三つの操作はいずれも排中律(反合)に基づくことが明かであ るが、更にこれを明瞭にする為に次の如く図示しておきたい(図Ⅲ)。

  図3-1

  I  =   P∪¬P
  ~       ~    ~
  |       ↑    ↑
  |       └----┘
  |          ↑
  └----------┘
      剖  析

  図3-2

I = P∪¬P ~ ~ | ↑ └----┘ 配偶


  図3-3
I = P∪¬P ~ ~ ~ ↑ ↓ ↓ | └-┬-┘ | ↓ └---------┘ 全 観

〔九〕さら一に、この三個の方法を合して反観合一の全体を理解するには次の図 示が便利である。ただし、f(A)と¬f(A)とは

f(A)=df{x|(x∈A)・f(x)} ・・・・・(F3)
¬f(A)=df{x|(x∈A)・~f(x)}・・・・・(F4)

と定める。

図4



                      I                
                      ↑全              
                      |観              
                ┌----------┐          
                |          |          
                A  ---→  ¬A         
                  |配偶                
                剖|                    
                析|                    
                  ↓                    
            ┌----------┐              
            |          |              
            f(A)    ¬f(A)            


〔十〕この図Ⅳを見て分るように、反観合一は任意の一概念(一集合)に対して 排中律を横向きに、上向きに、下向きにと三方向に使用することであるが、それ を総体としてみれば二分法を繰り返し実施することである。そして梅園によれば この二分法は限り無く繰返されうるのであり、「剖析無窮」(玄,天冊-Z,[上]、 P47,a,P59,a)と言われる。これを逆に言えば、あらゆる二分法の基 礎となるべき根源の全集合が考えられるはずであり、それは外延的には一切を包 含するが、内包的には何の限定もない無限定的全体性と考えなくてはならぬ。

〔十〕この図Ⅳを見て分るように、反観合一は任意の一概念(一集合)に対して 排中律を横向きに、上向きに、下向きにと三方向に使用することであるが、それ を総体としてみれば二分法を繰り返し実施することである。そして梅園によれば この二分法は限り無く繰返されうるのであり、「剖析無窮」(玄、天冊-Z、[上]、 P47,a,P59,a)と言われる。これを逆に言えば、あらゆる二分法の基 礎となるべき根源の全集合が考えられるはずであり、それは外延的には一切を包 含するが、内包的には何の限定もない無限定的全体性と考えなくてはならぬ。

〔十〕この図Ⅳを見て分るように、反観合一は任意の一概念(一集合)に対して 排中律を横向きに、上向きに、下向きにと三方向に使用することであるが、それ を総体としてみれば二分法を繰り返し実施することである。そして梅園によれば この二分法は限り無く繰返されうるのであり、「剖析無窮」(玄、天冊-Z、
[上]、P47,a,P59,a)と言われる。これを逆に言えば、あらゆる二分 法の基礎となるべき根源の全集合が考えられるはずであり、それは外延的には一 切を包含するが、内包的には何の限定もない無限定的全体性と考えなくてはなら ぬ。

何故かといえば、何らかの限定(特性)があれば、配偶の方法によりそれを否 定するものと対立しあうこととなって部分集合となる。部分集合に対しては、全 観の方法によって必ずそれを包む全集合があることとなる。かくて全観の最終に あるもの(すなわち、剖析の最初にあるもの)は全く無限定のものでなくてはな らぬはずである。梅園が「元気」とか「一元之気」と名づけたものがこれである。 彼日く、「元気本一、故分」(玄、小冊、--Z、[上]、P203、b)と。ま た日く「本是一元之気」(玄、天冊-Z、[上]、P64、b)と。そしてこの一 元之気は無限定的全体の故に、これを図示しようとするも図示することが出来な いのであり、かくて玄語図の最初は全く空白の一紙とならざるを得ず、これを梅 園は「性体没痕、未上図」(G、P3)と言い、また「一不上図」(G、P11 2)と言うのである。

〔十一〕かくて無限定的全体性としての一元之気は彼の論理(反合)と方法論 (反観合一)とから必然的に想定せざるを得ない論理的な極限概念であって、根 拠なき独断的な形而上学的概念ではないのである。--これは後に彼の存在論お よび自然学を考える場合にも重要な意味をもつことになる。というのは論理的極 限概念を基礎とし、論理的方法を支柱として存在論が構成され、自然学が形成さ れるからである。それ故彼が自己の思想を「條理」の学と呼んだのはまことに当 を得て居る。というのは、「條理」とは彼の論理の諸概念の総称だからである。

〔十二〕なお、根源の「一元之気」と「剖析無窮」とを考慮して上記の図4を修 正すると反観合一の総体は次の如くに図示されるであろう(図5)。

図において、「f^i」は集合を限定して部分集合を作る函数であり、fは函数「f」
を i 回繰返して操作することを示す。そしてそれは通常の指数法則に従う。

【図5】


                                                  0
                                      一元之気=f  (A)=I
                                                  ↑
                                                  |
                                      ┌----------┴-----------┐
                                           1               1     
                                          f (A)=A ---→ ¬f (A)
                                             ↑
                                            /
                                          /
                                         ↑
                            ┌-----------┴------------┐
                                 i-1              i-1   
                                f  (A)=A ---→ ¬f  (A)
                                  ↑
                                  |全
                                  |観
                                  |
                    ┌------------┴----------┐
                         i                i    
                        f  (A)=A ---→ ¬f  (A)
                            |    配偶
                          剖|
                          析|
                            ↓
               ┌-----------┴------------┐
                   i+1              i+1  
                  f  (A)=A ---→ ¬f  (A)
                    |              |
                    ↓              ↓
            ┌--------------┐
                 /         
                /
              /
            ∞
            ∥
          無  窮

四、積極的方法論 (2) --推観--

〔一〕『玄語』に見られる積極的方法論は上述の如く、論理的手段と実証的手段 との二本立てである。そして論理的手段の主流は反観合一であるが、それ以外に 実は二つの論理的手段が用いられている。すなわち、

(1)推観 --他人に対する類推推理。反観合一を補足する方法である。 (2)旋転観 --観点を交換する方法。

この二種である。ここでは先づ推観を考える。

〔二〕推観は反観合一と並ぶものである。しかしそれらは適用領域が違うのであ る。彼日く、 「火の好み水に推すべからず。魚の好み鳥に推すべからず。故に反観にあらざ れば、我にあらざるものに通ずる事能はず。推観にあらざれば、人に恕す事能 はず」(多-Z、[上]、P101、a&b。岩波文庫仮、P30)。 あるいはこうも言う。

「人ノ人ヲ知ル、其ノ街ハ推拡(推観と同義--末木註)ヲ貴プ、而モ其ノ反 ヲ舎カズ。人ノ天ヲ知ル、其ノ術ハ反観ヲ貴ブ、而モ其ノ比ヲ舎カズ」(玄、 小冊-Z、[上]、P227、b)、

これらの所説によれば、梅園は二つの領域と二つの方法とを並行させて居たこと が明瞭である。

〔三〕反観(反観合一)が言はゞ物と物との関係をたどる論理的方法であるのに 対して、推観は心から心をたどる論理的方法である。両者の適用領域は判然と区 別されるのであって、これを混同すると、大きな危険な誤謬に陥る、と梅園は言 う。すなわち、 「心ヲ推シテ物ヲ観ル。終二心ノ私スル所トナル。美卜雖モ、善卜雖モ、天地 ノ本然二非ザルナリ」(玄、例旨--Z、[上]、P7、a)ということになる。 この種の誤謬は人間に似せて自然現象を説明する擬人観(anthropomor phism) の誤りであるが、梅園はこれを「窺ゆ」〔文字注:「ゆ」はあなかんむりに「偸」 からにんべんを取った文字〕と名づけている(玄、例旨-Z、[上]、P7、b。玄、 小冊-Z、[上]、P190、b、その他)。この窺ゆも類推ではあるが誤りである。 推観はこの窺ゆとは違って正しい類推である、と梅園は主張する。

〔四〕したがって、三種の論理的方法があり、そのうちの二種は正しく、一種は 誤りであることとなる。すなわち、

(1)反観 --物と物との問の論理的思考であり、排中律(反合)に従う。 (2)推観 --心(自我)と心(他我)との間の論理的思考であり、類推法に 従う。 (3)窺ゆ --心(自我)と物との間の論理的思考であり、類推法による擬人 観である。これは誤謬である。

このように並べて見ると三者の相違が一応明らかになるが、ここで「物」と言い、 又「心」というのが何を指示するのか必ずしも明瞭ではないので、その点をさら に厳密にしてみる必要がある。

〔五〕いま「物」という代りに「三人称」とよぴ、「自我の心」という代りに 「一人称」とよび、「他我の心」という代りに「二人称」とよぷことにすると、 上記の三種の思考法は次のように特徴づけられる。

(1)反観 --三人称から三人称への論理的思考であり、排中律に従う。 (2)推観 --一人称から二人称への論理的思考であり、類推法に従う。 (3)窺ゆ --一人称から三人称への論理的思考であり、類推法による擬人観 である。これは誤謬である。

このようにして区別すれば、三者の相違は言葉の上では簡明になるが、しかし何 故、第1と第2とは正しく、第3のものだけが誤りなのか。

〔六〕梅園自身の言葉に徴してみると、その理由は次のように整理できる。

(1)三人称(「天」)は無意である。〔「無意ハ天ノ徳ナリ」(玄、小冊-Z、 [上]、P192、a)。「天ハ無意ニシテ為ス」(玄、小冊-Z、[上]、P191、 b、)その他〕。

(2) 一人称並びに二人称(「人」)は有意である。〔「有意ハ人ノ徳ナリ」 (玄、小冊-Z、[上]、P192、b)。「人ハ有意ニシテ為ス」(玄、小冊-Z、 [上]、P192、b)その他〕。

(3)したがって三人称と一人称とは異類である。

(4)また一人称と二人称とは同類である。

(5)異類のものの間には類推(推観)は成立しない。〔「有意ヲ以テ無意ヲ観 ル者ハ、人ヲ以テ天ヲ窺フ也。之ヲ窺衆卜謂フ」(玄、小冊-Z、[上]、P198、 a)その他〕。

(6)同類のものの間には類推(推観)が成立する。〔「人ノ人ヲ知ル、其術ハ 推拡ヲ貴ブ」(前引)〕。 この六ヶ条を前提として立てれば、次の結論は容易に尊かれる。

(7) 一人称から二人称への類推は正しい。 何故かといえば、  (4)に依って、一人称と二人称とは同類であり、(6)によって同類のも のの間には類推が成立するからである。

(8) 一人称から三人称への類推は誤りである。 何故かといえば、 (3)に依って一人称と三人称とは異類であり、(5)によって異類のもの の問には類推は成立しないからである。

かくて推観と窺ゆとの相違が明瞭になった。

〔七〕次にこの関係を一般化して、推観と反観との関係を採ってみたい。

(1)いま集合Aを性質fで限定して部分集合 f(A)をつくる。すると、この部 分集合に属する対衆(たとえばa)は集合aに属し、かつ性質Iを持つ。論理記 号で表現すると、

(a∈f(A))≡[(a∈A)・f(A)] ・・・・・・(F5)

となる。〔「∈」は所属を表す記号。「・」は連言(「そして」)の記号。 「≡は論理的な等号。」--この式は上記の(F3)から導かれる。 (2)同様に、集合、f(A)を性質gで限定してその部分集合g(f(A))をつく る。その時、対象aがこの集合に属する時には、aはf(A)に属し、かつ性質 g をもつ。さらにこれを分析すると、aは集合Aに属し、かつ性質Iをもち、か つ性質gをもつ。したがって、

(a∈g(f(A)))≡[(a∈f(A))・g(a)] ・・・・(F6・1) ≡[(a∈A)・f(a)・g(a)] ・・・・(F6・2)

となる。 (3)二つの対象aとbとが同類であるとは、両者共に同じ集合、たとえば g(f(A))に属することである。 (4)aとbとが異類であるとは一方aの属する集合にbが属しないことである。 (5)同類の二つの対象a、bは同類である限りで同じ性質をもつ。すなわち、

[(a∈f(A))・(b∈f(A))]→[f(a)→f(b)] ・・・・(F7)

これは(F5)から容易に導かれる。〔式のなかの矢印「→」は内含(「ならば」) を意味する。〕 --これは恒真式である。 (6)異類の二つの対象a、bは異類である限り同じ性質をもたない。すなわち、 問題を簡単にするために、aもbも共に集合Aには属するが、aはf(A)に属し、 bはこれに属しないとするならば、(F5)から

[(a∈A)・(b∈A)・(a∈f(A))・~(b∈f(A))] →[f(a)・~f(b)] ・・・・・(F8)

となる。 --これは恒真式である。 (7)同類、異類の別は限定の段階によって変化する。すなわち、 (7・1)ある段階で同類の対象も、より高次の限定の段階では 異類となる。その場合には、たとえば、

[(a∈f(A))・(b∈f(A))・g(a)・~g(b)] →[(a∈g(f(A)))・~(b∈g(f(A)))]・・・・・(F9)

となる。 (7・2)ある段階で異類の二つの対象も、より低次の限定の段階では同類と なる。たとえばg(f(A))で異類のものも、f(A)では同類となる。これは (F9)を逆に考えればよいのである。 (8)推観とは同類の二つの対象の一方が持つ性質を他方も持つと考えることで ある。 --これは(F7)によって正しい。しかし限定の段階が高次になれば、 (F9)によって同類のものも異類となり、推観は成立しなくなる。 (9)窺ゆとは異類の二つの対象の一方が持つ性質を他方も持つと考えることで ある。すなわち、簡単化するためにaもbも共にAに属すると伎定しておくと、 窺ゆは次の如き式で表現される。

[(a∈A)・(b∈A)・(a∈f(A))・~(b∈f(A))] →[f(a)→f(b)] ・・・・・(F10)

しかるに、これは(F8)と合せると矛盾を生ずるので、妥当な式ではない。し たがって窺ゆは誤りである。 (10)反観合一とは次の三つの思考法の総体である。 (10・1)剖析(分析)とは集合f(A)を部分集合とg(f(A))とf(A)のう ちにおけるその補集合¬g(f(A))とに分けることである。 (10・2)配偶(対立項の発見)とは、集合f(A)に対してAのうちにおけ る補集合¬f(A)を見出すことである。

(10・3)全観(綜合)とは集合f(A)と補集合¬f(A)に対して合併集合 Aを見出すことである。

〔八〕かくの如く、一般化した結果、反観と推観と窺ゆとを統一的に見通すこと ができたのであるが、それによって三者の横造の相違が明かになった。すなわら、 (1)反観(反観合一)の三つの思考法はいづれも集合と集合との関係を思考す る方法であり、排中律に基づく恒真式で表現されるものである。 (2)推観は集合(同類)を介して個物と性質との関係を思考する方法であり、 恒真式で表現されるものである。 (3)窺ゆは集合(異類)を介して個物と性質との関係を思考する方法であるが、 矛盾を含んでいる為に誤謬となる。

〔九〕したがって梅園の主張は極めて正確であり、かつ妥当であることになる。 その要約を言えば、窺ゆを捨てて、反観と推観とを用い、しかも両者は相補足し あうものとして並用するのである。

〔十〕ただし、梅園は推観を人と人との間、または一人称と二人称との間、にだ け用いたが、上記の分析に従えば、同類なものである限り、どのような領域にで も使用しえるはずである。同様にまた反観の使用範囲は三人称だけに限る必要は ないのである。要は集合と集合との問には反観を用い、個物と性質との関係に関 しては推観を用いるのである。

五、積極的方法論 (3) --旋転観--

〔一〕『玄語』で用いられて居る論理的方法は反観合一と推観との二種であるが、 この二つから導かれるものとして第三種の論理的方法がある。それが「旋転観」 である。これは基本的な方法ではなく、派生的なものであるが、彼の全思想に対 する意味は極めて大きいものである。

〔二〕旋転観とは視点を移行する相対的な見方である。日く、 「旋転シテコレヲ観レパ、所トシテ左ナラザル無ク、所トシテ右ナラザル無シ。 上下シテコレヲ観レバ、所トシテ高カラザル無ク、所トシテ卑カラザル無シ」 (玄、小冊-Z、[上]、P207、a)。 つまり向きを変えれば、右のものが左になり、左のものが右になる。逆立ちすれ ば上のものが下になり、下のものが上になる。このようにあらゆる事物がその視 点を移すことによって反対の性質に変ずるというのである。

〔三〕この旋転観は『玄語』の随処に見られるが、たとえば次のような一文もあ る。

「散ヨリシテ天地ヲ観レバ、則チ天地モ亦萬物也。一ヨリシテ萬物ヲ観レバ、則 チ萬物モ亦一也」(玄、天冊-Z、[上]、P97、a)。

すなわち全体・部分のような基本的な区別もまた視点を変換することによって逆 転するというのである。何故かといえば、天地はそのなかに含まれる万物に対し て全体であるが、他の諸概念と並べて考えればより包括的な類概念の一切にすぎ ないこととなり、また天地のなかの一部にすぎない個々の事物(万物)もその内 に含まれる諸々の部分に対すれば一個の全体となるわけである。

〔四〕この視点移動による旋転観は反観合一および推観から導かれる方法である。 反観合一のなかにも推観のなかにも相対的態度が合意されているからである。

〔五〕先づ反観合一の場合。上述の図Ⅳについて言えば、 (1)集合Aはその部分集合f(A)と¬f(A)の二部分に対しては一個の全体で ある。しかしAはその補集合¬Aと共に全集合Iに対しては部分にすぎない。 したがって同一のAが下に向っては全体であり、上に向っては部分となる。 (2)Aとその補集合¬Aとの関係は、Aを肯定(陽)とすれば、¬Aは否定 (陰)となるが、¬Aを肯定(陽)とすればAは否定(陰)となる。したがっ て同一のAが見方によって肯定ともなり、その正反対の否定ともなる。

〔六〕推観の場合。上述の(F7)は個物aから同類の個物bを類推(推観)す ることを許す式である。しかし(F5)の定義によってこの式ではaとbとを交 換して恒真式たるを失わない。したがってaからbを類推(推観)したように、 bからaを類推(推観)することもできる。したがって一人称から二人称への推 観が許される場合には、逆に二人称から一人称への推観も許され、自我と他我と は全く対等で相対化されることになる。

〔七〕かくて反観からも推観からも視点移動の旋転観が導かれるのであるが、そ の結果は梅園の世界観に決定的な影響を与えるものである。それは事物の相対化 ということである。

〔八〕『玄語』の体系は相対観を内含して居るが、その根拠は二つある。それは (1)旋転観 (2)相反相依の原理 の二個である。このうち第二の相反相依の原理(玄、小冊-Z、[上]、P201、 b)は恒真式ではなく、一種の仮定である。これに対して旋転観は恒真式から導 かれるもので、論理的必然性をもつ態度である。

〔九〕このように『玄語』は二種の根拠によって相対観を立てるが、それはそれ ぞれの根拠に応じて二種の相対観なのである。すなわち、 (1)旋転観にもとづく相対観は事物を対等に見る態度である。 (2)相反相依の原理にもとづく相対観は事物を非独立のものと見る態度である。 この二種の相対観が合することによって、諸々の事物は非独立にして対等である ことになり、極めて特徴のある徹底した相対観が成立する。たとえば、時間・空 間の相対性について、「住スル者モ亦移り、移ル者モ亦住ス」(玄、地冊-Z、 [上]、P106、b)というが如きはその好例である。 --この徹底する相対観 が彼の思想を特徴づけると共に、『玄語』の文体をも特徴づけて居り、それが 『玄語』を無類に難解なものにした一因でもある。

〔十〕『玄語』の徹底する相対観はこのように一つには理論的仮定(相反相依の 原理)に由来し、一つには方法論の必然的結果に由来する。したがってその充分 な解明は後の章に譲らねばならぬ。ここではたゞ方法論上の根拠となって居る旋 転観の適用範囲について考察を加えておきたい。

〔十一〕視点移動の旋転観は『玄語』の到る処にその実例を見ることができる。 したがってあらゆる事物に関して視点移動ができ、対等の相対化ができると考え るならば、それは不用意な結論である。旋転観の適用できる事物と適用できない 事物とが『玄語』では判然と区別されて居るのであり、而もそれは反観と推観と から導かれる事である。

(1)旋転観の適用できる事物。 (1・1)反観合一の場合 (1・1・1)対立項(たとえばAと¬A)の肯定(陽)と否定(陰)とは 反転できる。 0

(1・1・2)極限概念(一元之気、f^0 (A)=I)でない限り、任意の項 i f (A)は全体ともなり、部分ともなる。

(1・2)推観の場合 (1・2・1)同類の二対象は相互に相手への推観が可能である。 (1・2・2)限定の段階に依って同類のものも異類となり、異類のものも同 i 類となる。一般にf (A)の限定段階 i が大きくなれば異類となり、i が小 さくなれば同類となる。i=0 の時には総てが同類となる。)

(2)旋転観の出来ない事物 (2・1)論理的諸原理、特に反合の原理(排中律)、は常に妥当なものとして 扱われ、決してその反対者(矛盾式)と考えられることはない。 --論理の絶 対性

(2・2)反観による分合(二分法)の極限概念たる一元之気は総てを含む無限 定的全体性として、如何なる他のものの部分ともなることはない。 --極限の 絶対性

〔十二〕これを要するに、一元之気という唯一絶対の枠のなかで、反合の論理とい う唯一絶対の物差しに従ってあらゆる事物を様々に配列し換えるのが旋転観である。 『玄語』の文章で多数の字句が万華鏡のように目まぐるしくその位置と脈絡とを変 えるのは、この旋転観の方法に由来するのである。

六、積極的方法論 (4) --依徴於正-- 〔一〕『玄語』を支えている方法論は論理的方法と実証的方法との二本立てである。 ここでは第二の実証的方法について論じたい。 〔二〕実証的方法とは梅園自身の言葉でいえば「依徴於正」(玄、例旨-Z、[上]、 P7、a。多-Z、[下]、P89、a、岩波文庫版、P16)である。それについて の梅園の説明は次の如し。 「依徴於正とは、徴と見えながら徴にあらざる徴あり。たえとば、日月は慥に西 にゆくの徴あれども、其実は東に行く。水は正しく火の讎と見ゆれども、火は水 によってなるごとし。)(多-Z、[下]、P89、a、岩波文庫版P16)〔文 字注:慥=たしか。讎=あだ。〕 つまり、経験的事実を正確に観察して、これを認識の真偽判定の標準とすべきだ、 ということであり、実証性の原則である。 〔三〕この原則には一つの前提がある。それは、経験的観察の標準は客観界にある という仮定である。これを「客観性の仮定」と仮りに名づけて置こう。梅園自身の 言葉でいえば、「徴在天地」(玄、例旨-Z、[上]、P10、a&b) である。 その実例として彼は二例を挙げて居る。一つは、昼の明るさを見て、夜の闇を知 るということである。他の一例は冬の雪を見て、夏の雷を知るということである (同上)。これらの実例が意味する所は次の如き事柄である。 (1)自我が経験的観察に依って触れることの出来るのは、客観界(天地)の一 面だけである。 (2)客観界では必ず正反対の対立する二項が対になって存在する。 (3)それ故、自我が一面を観察した時には、背後に隠れて居るそれの対立項を 考慮に入れて、両者を対(つい)として考えるべきである。その時始めて客観的 事物が認識できる。 〔四〕この三ヶ条のうち、第一条は普通に言えば狭義の経験観察である。第二条 は反合(排中律)の原理を客観界に適用した論理的繰作である。第三条は狭義の 経験観察と反合の論理的繰作とを複合して客観的認識に到達するということであ る。梅園のいう実証性の原則はこの三ヶ条から成るのであり、そのうち客観性の 仮定に該当するのは第二条の論理的操作である。これに対して第一条の狭義の経 験観察は観察者たる自我の主観的経験である。(これを梅園は「以私調停」(玄、 例旨-Z、[上]、P七、aと言う。〕 したがって第三条は主観的経験と客観的論 理的操作とを複合することによって実証的認識が得られるという主張である。

〔五〕したがって実証性の原則(「依徴於正」)を整理すると次のような構造を もつものとなる。 (1)自我の主観的経験(「以私調停」)--自我が個々の事物の一面を見るこ と。
(2)論理の客観性の仮定(「徴在天地」)--反合(排中律)の論理が客観界 に適用されるという仮定 〔「條理則天地之準也」・(玄、例旨-Z、[上]、 P10、b)〕。
(3)実証的認識 --主観的経験の一面性を客観的な反合の論理で補い、全体 的な客観の認識に到達すること。
かくて梅園の実証性の原則には論理(「條理」)が探く喰込んで居り、一種の論 理実証主義となって居ることが理解されよう。

〔六〕この論理実証主義は経験的観察と論理的思考との複合から成るものではあ るが、この二要因の役割は何なのか。何故、経験的観察だけで充分でないのか。 また何故、論理的思弁だけで充分でないのか。何故両者を共に必要とするのか。 それは次のような事情によるのである。

(1)主観的経験(「以私調停」) (1・1)その機能 --認識に具体的内容を与えること。 (1・2)その限界 --客観界の一面(対立の一項)にしか触れ得ないこと。 (2)論理の客観性の仮定(「徴在天地・條理則天地之準) (2・1)その機能 認識に全体的形式(対立項の対の形式)を与えること。 (2・2)その限界 --認識に具体的内容を与え得ないこと。 (3)論理実証的認識 その機能 --主観的経験から得た一部の具体的内容を論理の全体的形式に 与えて、客観界の全体的内容を推定すること。

〔七〕したがって彼の論理実証的認識の方法は現在の自然科学の方法に極めて近 似して居る。自然科学の場合には、

(1)実験観察 --有限個の具体的内容(与件の記述) を獲得する。 (2)論理的数学的形式化 --普遍的形式(方程式)を想定する。 (3)両者の結合 --有限個の与件の記述(観察値)を方程式に代入して、予 言値を算定する。

この自然科学の手続きが上述の梅園の方法と一対一に対応して居ることは一目に して了解できることである。たゞ第三の段階において自然科学は具体的な自然現 象を予言するのであるが、梅園の場合には予言よりも、世界の具体的な全体像を 描くのが目的である。(この相違は梅園の学問が自然学であって自然科学ではな い所以ともなる。)

〔八〕『玄語』の実証的方法(「依徴於正」)はしたがって単なる経験観察とい うことではなくて、論理的思考と不可分に結びついた方法であり両者統合して論 理実証的方法となって居るのである。それは主観によって内容を得、論理によっ て客観性を得るような方法である。--この発想は多少奇妙な所があるように見 える。というのは、普通ならば、経験内容の方が客観的で、論理的思考の方が主 観的と考えたくなるであろう。しかし梅園はその逆の発想をして居るのであるが、 現代の自然科学はこの梅園的発想に一致して居るのである。それならば何故論理 的思考が客観性をもちうるのであるか。何故、「條理ハ則チ天地之準ナリ」(Z、 [上]、P10、b)と言えるのであるか。

〔九〕論理の客観性の仮定は仮定であって、それ以上の根拠のあるものではない。 たゞ論理は思考の必然性である。したがって客観界を思考するには論理の筋道 (「條理」)に従うより他に方法はないことになる。したがって客観界自身がど うであれ、それを思考する限りでは論理の必然性(「條理」)に従う以外に道は ないのであるから、それが世界認識の標準とならざるを得ないわけである。これ が「條理ハ則チ天地ノ準ナリ」ということの意味である。條理(論理の法則)は 天地の法則ではなく、天地の物差しであり、天地を考える為の標準(「準」)な のである。これが論理の客観怯の仮定である。

〔十〕しかし世界を考え、世界を認識することも世界の内の出来事である。「天 地ハ一全物ナリ」(玄、天冊、-Z、[上]、P55、a)であり、認識もまた天地 世界のなかにある。認識といえども、天地世界の外へ出ることは出来ない。その 点で『玄語』の構造は純然たる内在論(immanent philosophy)である。

〔十一〕したがって世界のなかにあって世界を考えるのであるから、思考の必然 性は世界の必然性でもある。したがって思考を支配する法則は世界を支配する法 則でもある。その限りで論理の客観性の仮定は仮定以上の強制力をもつはずであ るとも考えられよう。--しかしこの点は充分慎重に考えなくてはならぬ。

〔十二〕世界についての思考は世界の内にあるので、世界が世界自身を考え、世 界が世界自身を写像することである。しかし世界は思考を内に含んで居るとは言 っても、世界は思考よりも広い。したがって思考は世界の一部を写像しえても、 世界の全体を写像しうるとは言えない。したがって思考における論理の必然性は 世界の一部については必然性として妥当するとしても、世界の全体に妥当すると いう保障は何処にもない。それ故、思考の論理の必然性が世界全体に通用すると いう主張はやはり仮定であって、それ以上のものではあり得ない。

〔十三〕『玄語』では「條理ハ則チ天地ノ準ナリ」と言って、論理が世界を思考 する為の標準となり、しかもその標準の根拠は客観性をもつと考えて居る(「徴 ハ天地ニアリ」)。その限りで論理の客観性の仮定は仮定以上の確実な原理であ ると考えて居るように見える。しかし梅園は極めて慎重であって、決して軽率な 独断に陥りはしない。彼は論理的法則(「條理」)が世界認識の為の標準(「天 地ノ準」)であると主張したのに並べて、その妥当性の限界をはっきりと自覚し て次のように述べて居る。日く、

「我ハ造物者二非ズ。ナンゾ能ク條理ヲ盡サン。」(玄、例旨Z-[上]、P10、 b)。

このように、條理(論理的法則)の限界を認めるのであり、その限界のなかで、 條理は「天地ノ準」であると考えるのである。したがって、梅園もまた論理的思 考の客観性を仮定として認めて居るのであって、それ以上の独断的主張をして居 るわけではないと言ってよい。

〔十四〕かくて『玄語』の実証的方法は先に述べた通り、(1)自我の主観的経 験、(2)論理の客観性の仮定、論理理実証的認識という三ヶ條から成ると考え てよいであろう。

〔十五〕この方法は最初にも触れたように今世紀前葉のウイン学団(Wiener Kreis) の主張と近似した面が少なくないのであるが、相違点もあるのは勿論であり、そ こに『玄語』の特徴が見られるのである。それ故、両者を対比してその要点を列 挙して置きたい。

(1)両者の相似点 --両者共に二つの方法を綜合して居る。すなわち、
(1・1)個々の経験による具体的な認識内容の提供
(1・2)論理的思考による一般的な認識形式の提供
(1・3)両者の結合による認識の成立。

(2)両者の相違点
(2・1)経験に関して
(2・1・1)ウイン学団は経験そのものではなく、個々の経験についての 記述命題(Protokol-Satz)から出発する。
(2・1・2)『玄語』は経験そのものから出発する。

(2・2)論理的思考について
(2・2・1)ウイン学団は専ら言語分析のために論理を用いる。その基本 原理は矛盾律である。

(2・2・2)『玄語』は認識体系を構成するために論理を用いる。その基 本原理は排中律(「反合」)である。

(2・3)論理実証的方法の効果について
(2・3・1)ウイン学団は諸科学の批判を介しての統一(統一科学)を目 指す。
(2・3・2)『玄語』は合理的な世界像の構築を目指して居る。
(2・4)要約していえば、
(2・4・1)ウイン学団は論理実証的な認識批判である。
(2・4・2)『玄語』は論理実証的な世界像の構成である。

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