001 一不上図 itihujouzu(一ハ図ニ上ラズ)

究極的全体は言明不能であるという言明

この図に対して、論理的に最も明確な判断を下したのは、末木剛博である。
末木の論文「『玄語』の論理(1)」および「梅園とヘエゲル」にそのこ
とは明記されている。しかし、末木の説では「経緯剖対図」のフラクタル
構造が説明できない。

否定による自己表現しかできないこの白紙の図は、「経緯剖対図」のすべ
ての[一]に代入可能である、というのが、私の解釈である。


【代表的文例】

代表的文例は、ハイパーテキスト条理語辞典を図の中の語で検索した文例から、
図の意味に合致すると判断されるものを指す。図の意味を理解し、『玄語』原文
/訓読を参照して前後の文を読まないと、図に対応する文であるか否かは判断で
きない。ダウンロードはこちら。        

2978: 一なる者は精なり。而して其の神は未だ窺う可からざるなり。     

3221: 一なる者は自から成す》                      

3278: 一なる者は外無し〉                       

10973: 一なる者は〉二の全なり〉二外の一無し〉              
10974: 二なる者は》一の分なり》一外の二無し》              

11664: 万なる者は一に資す〉                      
11665: 一なる者は万に給す》故に原は一にして派は別なり。        

13301: 天地を成する者は 一なり〉                    

16197: 一なる者は数えずして足る。故に                  
16198:  之を剖して破す可からざるに至るも〉猶お一を尽さず〉       
16199:  之を加えて載す可からざるに至るも》猶お一に至らず》       
16200:  一元気は玄なり。                        
16201:  二なる者は一を挙げて一を闕く。具を言いて闕を見す。亦た玄なり。 
16202:  或ひと曰く玄にして玄ならば。則ち何ぞ子の言に待たん。      
16203:  玄にして玄ならずんば。則ち何ぞ玄を言うを用いん。        
16204:  玄を言うを待ちて而して後玄ならば。玄は玄と為すに足らず。    
16205:  玄 玄を言うを待たずんば。何ぞ子の言に益せんと。曰く故に玄なり。

 ただし16197-16205:は、梅園全集版/杵築写本(Aとする)と岩波日本思想大系
版/三枝博音訓読版(Bとする)で相違がある。『三浦梅園資料集』(ペリカン社)
の影印本『玄語』を見るとAとBと両方載せられているが、清書されているのはA
の方であり、Bは非常に小さな字で書かれていて、清書されてはいない。岩波日本
思想大系版の校異を見ると「附言」は版下本にはないと書かれている(校訂は田口
正治博士)。文意をよく伝えるのはBであるので、三枝博音氏の訓読版を以下に紹
介する。(旧漢字は常用漢字に改めている。)                

 一は数へずして足る。故に之を剖きて破る可からざるに至るも、猶一を尽さず。
之を加えて載す可からざるに至るも一に至らず。故に強ひて命じて一元気と曰ふ。
一を挙げて一を欠(うしな)ふ。具を言ひて欠を見はす。故に玄と曰ふ。或るひと
曰く、既に玄なり、何ぞ玄を曰ふに言を以てなし何を示して玄とせん。玄にして玄
らば何ぞ子に待たん。玄にして玄ならずんば徒に子の労を観ん。予答へて曰く、
故に玄なり。
                               

 思うに、この「或るひと」は梅園その人であろう。つまり、この文は三浦梅園の
自問自答であろう。これほど怜悧な質問をした人が居たとは思えないのである。真
相はともあれ、梅園はこの問いに対して答えを出している。          

15470:  書と図とは皆な贅疣なり。姑く魚兎の為に筌蹄を設くるのみ。    
     (贅疣:ぜいゆう。姑く:しばらく。筌蹄:せんてい)

が、それである。                             


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