校 異




 上図のように訂正されている。すなわち「爲」を「開」に訂正したあと、さらにその「開」
を訂正して「爲」に戻し、「成」は、ともに「有」に訂正されている。これは、「神物」と
「道徳」の関係が分からない人が訂正したものであると推測される。

 たとえば、ここにひとつの車輪があるとする(梅園はこの比喩をよく用いる)。この車輪
は「物」で出来ている。「出来ている」ということを意味するのが「成」である。車輪は、
回転していないときでも、回転する能力を持っている。この「能力を持つ」ということ、つ
まり「可能的にそれを保有すること」が「有」である。回転するという能力が車輪の「徳」
である。つまり「徳」とはそのものの運動的可能性である。可能的に保有されている「徳」
が、時間と空間の中で実際に運動するとき、その運動態あるいはその展開態を「道」という。

 車輪が回転するためには、何らかの働きかけがなければならない。人や牛・馬などが押す、
あるいは引く、あるいは、坂道であるので下に転がる、などである。これらの回転のきっか
け、回転への働きかけが「神」(しん)である。したがって、概念の対応としては、

道-開
徳-有
神-爲
物-成

とならねばならない。梅園はこれらの関係を明瞭に理解しているが、この訂正は概念の対
応が曖昧なものの手によるものである。したがって、おそらく黄鶴の訂正である。岩波版
は、この訂正をそのまま採用している。


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