三浦梅園の業績

  三浦梅園の業績は多岐にわたるものであるが、ここでは知識工学的な観点から
の取り扱いを説明する。このような取り扱いが要求されるのは、第一主著『玄語』
だけであるのでこれについてのみ言及する。

1.  玄語

  この著作には梅園の思索の全体が凝縮されており、第二主著『贅語』も第三主
著『敢語』も「形式化され論理化されて吸収されて居る」(末木剛博,「梅園と
ヘエゲル」梅園学会報15号P4)のであるから、『玄語』の解明が出来れば梅園哲
学の全体系は自ずと明らかになるのである。では、知識工学的な観点からの『玄
語』研究は如何になされれるべきであるかを以下に記述する。

三浦梅園とBTRONについての考察はこちら。


1.1  『玄語』の記述の特性

1.11  記述の単位としての語
  『玄語』は、これまで一部の人々がごく部分的に指摘してはいたが、全体が黒
点(記号「〉」で表す)と白点(記号「》」で表す)で、シンメトリックに記述
されている。『玄語』全文にわたってこれを証明し、『玄語』全体の構成と記述
法を視覚的に明らかにしたのは、私が最初である。これは、パーソナルコンピュ
ータの普及に負うところが大きい。また『玄語』を構成する語は、原則として一
語一義(ひとつの語がひとつの意味を持っている)であり、かつ、相い反する二
字からなる熟語、もしくはそのような熟語を二つ合わせた四字からなる熟語を語
の構成単位としている。

【二字からなる熟語の例】
・天地
・陰陽(原著で用いられるものは、これからこざとへんをとった異体字。)
・気物
・時処
・大小
・分合  etc......

  これらは基本的に(a,-a)という組み合わせであり、かつ一階高次の語(概念、
あるいは範疇)に統合されるという構造を持っている。この高次の語をAとし、A
が(a,-a)に展開されることを記号  →  で表せば、A→(a,-a)となる。これを
(1)とする。

【四字からなる熟語の例】
・天地陰陽(陰陽に関しては、上に同じ。)
・本根精英
・気物体精
・同胞れん胎(「れん」は攣の手を子に変えた文字。)
・宇宙方位
・虚実動静  etc......

  これらは基本的に{(a,-a)(b,-b)}という組み合わせである。(1)と同じ手順に
従って語を統合すれば、{(a,-a)(b,-b)}は(A,B)であることになるが、AとBとの
関係は(a,-a)と同じであるので、これもより高次の語(概念、範疇)に統合される
ことになる。いま、これをA'とすれば、A'→(A,B)→{(a,-a)(b,-b)}であることに
なる。これを(2)とする。これが『玄語』における概念の基本的な展開構造である。

  すべての語を統合したものは言明不可能とされる。これを「玄なる一元気」とい
い、一不上図という白紙の図によって示される。これがラッセルの逆理に陥る
自己包越者であることは、既に末木剛博氏(東京大学名誉教授)によって指摘され
ている(梅園学会報15号「梅園とヘエゲル」P7)。

  以上は、簡略ではあるが、『玄語』全体を一貫する語の用法であって、例外は至
って少ない。これによって明らかにされる『玄語』の語の関係は、ちょうどやじろ
べえの頭と腕につけられた三個の球のそれに例えられる。いま、このやじろべえが
上方にも下方にも際限なく連鎖していると考えてみよう。そうするとあるやじろべ
えの頭は、上位のやじろべえの一方の腕であるが、より下位のものに対してはその
腕の一方が頭となる。『玄語』の語の構造は、基本的にはこのようなものであって
決して複雑なものではない。(a,-a) はAというやじろべえの腕につけられた球であ
り、(b,-b) は、Bというやじろべえの腕につけられた球である。そしてAとBはよ
り上位のやじろべえの腕につけられた球になる。

1.12  語の配列としての文

  以下に北林達也編集版《『玄語』検索用基本テキスト》の一部を示す。数字は
検索用行番号である。まず訓読を、次に原文を示す。

1.訓読

06393:  天地を分すれば〉則ち転持は合す〉
06394:            天體は自ら虚なり〉
06395:            地體は自ら実なり〉
06396:            転を貫して直なり〉
06397:            持に徹して円なり〉
06398:            動を以て形と為さず〉
06399:            直円は混成す〉
06400:  転持を分すれば》則ち天地は合す》
06401:            転気は自ら精なり》
06402:            持気は自ら麁なり》
06403:            地を貫して矩を為す》
06404:            天を転して規を為す》
06405:            静を以て形を為さず》
06406:            規矩は粲立す》

2.原文

06393:  分天地〉則転持合矣〉
06394:       天體自虚〉
06395:       地體自実〉
06396:       貫転而直〉
06397:       徹持而円〉
06398:       不以動為形〉
06399:       直円混成〉
06400:  分転持》則天地合矣》
06401:       転気自精》
06402:       持気自麁》
06403:       貫地而為矩》
06404:       転天而為規》
06405:       不以静為形》
06406:       規矩粲立》

  いま、対を為す語を(*|*)で示し、対ではなく前の語が、後ろの語を形
容している場合を、単に(**)で示し、一語のみの場合を(*)、
上下の対を(*)
      |
     (*)で示し、離れている対語を+----+で示すと、

         +--------------+
  06393:  (分)(天|地)〉則(転|持)(合)矣〉
    
  06394:            (天體)自(虚)〉
                   |    |
  06395:            (地體)自(実)〉

  06396:            (貫転)而(直)〉
                   ||   |
  06397:            (徹持)而(円)〉

  06398:             不以(動)為(形)〉

  06399:            (直|円)(混成)〉  

         +--------------+
  06400:  (分)(転|持)》則(天|地)(合)矣》

  06401:            (転気)自(精)》
                   |    |
  06402:            (持気)自(麁)》

  06403:            (貫地)而為(矩)》
                   ||    |
  06404:            (転天)而為(規)》

  06405:             不以(静)為(形)》

  06406:            (規|矩)(粲立)》

かつ、(06393|06400)
   (06394&06395)|(06401&06402)
   (06396&06397)|(06403&06404)
   (06399|06406)

かつ、(06393~06399)|(06400~06406)

となる。結構煩雑ではあるが、これは、梅園自身が、

15526:  句中自ら対する者有り。

と書いている場合の例であって、

15527:  章を隔てて相い対する者有り。

となると、もはや「読む」という行為から理解に及ぶことは極めて困難である。が、
検索機能(ことにgrep)を用いれば、難なく読みとれる。『玄語』の文は、通常の
意味の漢文であるというよりは、むしろ、論理的に定義された語を漢文法に従って
配列しただけのものであると考えた方がよい。そして語の意味は、

1.??なる者は**なり。(名詞に「也」をつけて終わる例。
                                          原文では、「??者**也」)
2.??なる者は**す。  (動詞で終わる例。原文では、「??者**」)
3.??なる者は**。    (言い切りで終わる例。原文では、「??者**」)
4.??する者は**す。  (定義語が動詞の場合。)

という文型によって示されているので、通常のテキストエディタのgrep機能を使っ
て「なる者は」または「する者は」を検索すれば、漏れなく抽出できる。前後の文
を見たければタグジャンプを使えばよい。なお《『玄語』検索用基本テキスト》の
訓読は、機械処理用としては推敲が不十分で、動詞が必ずしもサ行の活用で終わっ
ていない場合がある。機械処理用の訓読においては、読みと送り仮名を語の判別の
ためだけに用い、修辞のためには用いないと言う手法を徹底させる必要があるが、
訓読版制作時点(平成2年)では、その意図が明確でなかった。
  そうすると次に考えられることは、語を漢文法に従って配列することではなく、
論理記号を使って書き改めることである。『玄語』において用いられるこのような
語(括弧で括った語)は通常「条理語」といわれる。「条理語」には基本的に二種
類ある。ひとつは、実在するものを指示する語、もうひとつはそれらの語の関係を
示す語である。これらを理解することが『玄語』を読むことであって、それには漢
文の素養など必要ない。解読は、現時点で殆ど終了しているが、記録されていない
ので、不慮の事故などの場合は、解読にかかわる知識は消滅する。

1.2  知識工学的観点からの『玄語』研究の哲学的基礎

  私は『玄語』の哲学を解釈するにあたって、これまでのいかなる研究者とも異な
った見解を持っている。それは、『玄語』を「事実の論理的映像(実在の論理絵)」
として解釈するものである。これは今世紀最大の哲学者の一人とされるルートヴィッ
ヒ・ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein, 1889-1951)の初
期の著作『論理哲学論考』(法政大学出版局、叢書ウニベルシタス6。他に中央公
論社「世界の名著70」などに収録されている)の中に極めて明晰に述べられてお
り、ヴィトゲンシュタインに関するいかなる解説書にも必ず取り上げられるもので
あって、決して難しい思想ではない。いま、その一部を引用する。数字は命題番号
である。

事実の映像
2.1    われわれは事実の映像をこしらえる。
2.11   映像は論理的空間における情況を表現する。映像は、事態の成立・
       不成立を表現する。
2.12   映像は実在のひな型である。
2.13   映像の中では、映像の要素が、対象に対応している。
2.131  映像の中で、映像の要素は対象を代表している。
2.14   映像は、その要素が一定の仕方で互いに関係するところに、なりたつ。
2.141  映像は一つの事実である。
2.15   映像の要素が一定の仕方でたがいに関係することは、事物がそれと同
       じ仕方でたがいに関係していることを表す。              (つづく)

映像と実在を結ぶきずなとしての、描写の形式
       映像の要素のかような結合を、映像の構造と呼ぶことにし、その構造
       の可能性を、映像がもつ描写の形式と呼ぶことにする。
2.151  描写の形式とは、映像の要素がたがいに関係しあうのと同じ仕方で物
       がたがいに関係しあう、その可能性にほかならない。
2.1511 映像はこのようにして実在と結びついている。映像は実在にまで、到
       達する。
2.1512  映像は実在に当てられた物差しのようなものだ。
(2.15121~2.174  省略)

論理的映像
2.18   正しいにせよ誤りにせよ、およそ実在を描写しうるには、いかなる
       類の映像でも、ともかくなにものかを実在と共有せねばならぬ。それ
       が論理的形式、すなわち実在の形式にほかならない。
2.181描写の形式が論理的形式であれば、その映像は論理的映像と呼ばれる。
2.182  すべての映像は、同時に論理的映像でもある。(これに反し、どの映
       像も、例えば空間的な映像であるとは限らない。)
2.19   論理的な映像が世界を描写できる。
2.2    映像は描写の形式を被写体と共有する。
2.201  映像は事態の成立・不成立の可能性を表わすことによって、実在を描
       写する。
2.202  映像は、論理的空間における可能な情況を表わす。
2.203  映像は、それが表わす状況の可能性を含み持つ。
2.21   映像は実在と一致するか、しないかのいずれかである。映像は正しい
       か誤りか、真か偽かのいずれかである。
         (訳は、法政大学出版局叢書ウニベルシタス6を用いた。)
    
  このデータベースに収録された『玄語』を編集した者として、かつこれまでの研
究成果を概観してきた者として、私は以下の見解を示すことが出来る。

1.  『玄語』の各図はなにものかの描写である。
2.  各図の構成は剖対反比図一合

経緯剖対図




に図示されているとおり、2分探査に従っている。

3. 2分探査には、論理的な裏付けがある。末木剛博氏によればそれは排中律であ
   る。末木剛博氏の考察によって、『玄語』に論理の三原則(同一律、矛盾律、
   排中律)が含まれていることは既に指摘されている(「玄語の論理-その1-」
   梅園学会報7号)。従ってこの見解によれば、(1)に示した(a,-a)は、(a V -a)
   である。ということは結局、『玄語』の論理は2値命題論理であり、私見によ
   ればそれは不並律に還元できる。とすれば、梅園の哲学的業績のひとつは、独
   自にストローク関数を発見したことにあることになるが、これについては証明
   を得ていない。もし『玄語』の論理が不並律であるならば、上出の「経緯剖対
   図」において各「一」から外周方向に引かれた細線がシェファーのストローク
   に一致することになる。ともあれ、排中律であるにせよ、不並律であるにせよ、
   この細線は、論理的演算子であることになる。
4. 従っていずれにせよ『玄語』の図は、なにものかの論理的映像であり『論理哲
   学論考』の上記命題2.181に合致することになる。
5. 梅園は、この「なにものか」を「天地」という。「天地」とは自然のことであ
   る。(この「天地」を越えたものは、言明不可能な全一者である。これを「一
   不上図」と書かれた白紙の図によって示している。)
6. この自然は、西洋自然科学的な意味での自然ではない。なぜなら『玄語』はそ
   のような意味での自然概念が日本に流布する以前に書かれた書物だからであり、
   梅園は自然科学的な自然の記述を、その流入の初期に「西学」と規定し、それ
   とは異質なものとして自己の哲学を位置づけている。梅園による自然科学理解
   は、それがけっきょく自然の記述学に過ぎないと言うことである。
7. 自然の記述学もまた自然の論理的映像であり、我々はこれを一般に自然科学と
   呼ぶ。自然科学は実証主義の一形態であり、これは「科学的実証主義」と呼ば
   れる。科学的実証主義においては、自然界は数理によって記述され、計算によ
   る予言可能性を持つ。そして、予言の的中を実証性の根拠とする。
8. 『玄語』は、自然科学とは異なった数理を持つ。その数理は「一即一一」と言
   われる。三個の「一」はやじろべえ型に配列され、それは連鎖を為す。これを
   示す図が「経緯剖対図」である。基本的には、すべてが「一」であるとされる
   ので、『玄語』の体系は計算による予言可能性を持たない。故に『玄語』の体
   系は、自然科学以外の論理的な学であり、自然科学とは別種の論理的妥当領域
   を持つ。(『論理哲学論考』命題4.1~4.116参照のこと。)
9. 高橋正和(まさやす)氏の研究によれば、『玄語』においては中国思想におい
   て伝統的な「地方体説」(ち  ほうたいせつ)、つまり大地が四角であるとい
   う説が否定され、「地球体説」(ち  きゅうたいせつ)が前提されている。こ
   の時期(江戸中期)、まだ一般には、大地が丸いという認識は広まっていなか
   った(『三浦梅園の思想』ぺりかん社)。梅園は「地球」または「地毬」とい
   う語を用いるが、「地球」という語を用いた最初期の思想家であることは疑い
   を入れない。
10.『玄語』の記述の妥当範囲は、可視的にはその最大規模において天球までであ
   り、最小規模においては小動物類あるいは鉱物類までである。この範囲に存在
   する諸要素は、地球から見るときいわゆる「地球生態系」を構成するものであ
   る。これは転図・運図
	  

   
および動植分合総図
   

   
	  を見ることで分かる。「運図・転図」を「日影図・水燥図」と訂正したのは梅
   園ではなく、これは誤りである。(「三浦梅園の生涯」にのべたが、これは長
   子三浦黄鶴(こうかく)の訂正の一例であり、明らかな誤りである。)
11.以上により、『玄語』が地球生態系の論理的映像であることは明かである。
12.知識工学の先駆者として三浦梅園の思想を見た場合、今日の知識工学の立場か
   ら、その思想を考え直すことが必要となる。その課題を以下に述べる。
  a.『玄語』を、紙メディアから電子メディアへ移行させることが必要である。紙
   メディアでは、『玄語』の思想を十分に反映し得ない。ということは、地球生
   態系の論理的映像を十分に創り得ないことを意味する。
  b.電子メディアへ移行させた後、『玄語』の推論機構を明らかにして、これを機
   械的に書き改め、研究用底本をコンピュータによって作る作業が必要となる。
   この底本は、歴史上の通例のものと違って、機械処理にも歴史的評価にも耐え
   得るものとならねばならない。梅園自筆の稿本も、機械的に書き直されたもの
   のバリエーションのひとつであるに過ぎなくなる。むろん、図も書き改められ
   ねばならず、図から文、文から図が、自動的に生成されねばならない。
  c.『玄語』が示しているものは、2分探査による自然界の分類が、ある一定の深
   さを以て妥当するということである。それはたとえば「あらゆる情報を収集し
   た百科事典」というものを仮想した場合に、その事典がアルファベット、また
   は50音、または何らかの方法によって分類可能であるのと同じである。その
   意味では図書館における図書の分類に似ている。図書の分類があらゆる情報に
   及ぶように、『玄語』の分類法は、理論的には、自然界に関わるあらゆる情報
   に及びうる。ただし、分類の深さがすべての情報に及ぶことはあり得ない。こ
   こには範囲と深度という二種の問題があるが、『玄語』においてはこれは解決
   されていない。いずれにせよ、『玄語』の論理が真であるならば、2分探査に
   よって生成される語(概念、範疇)によって、地球生態系は分類可能である。
   従って『玄語』の論理は言うなれば「地球データベース」の構築理論となりう
   るものである。
  d.しかし、地球生態系は動的なものであるから、その状況をリアルタイムに把握
   するためにはスタティックなデータベースであってはならない。それは電子空
   間上に構築されるリアルタイム・ダイナミック・データベースとでも呼ばれる
   べきものであらねばならず、その構築には全世界を上げて取り組まねばならな
   いような性質のものである。
  e.我々は、必要な情報を必要に応じて端末から取り出すことができ、必要に応じ
   て書き込むことが出来ねばならない。しかし、それらの情報は、どこかでフィ
   ルターにかけられ、どこかに記録され、誤謬であれば削除されねばならない。
  f.地球生態系は、閉じられた系であり、それゆえそれはそこに存在するすべての
   個物にとっての「全体者」である。故にその論理的映像は、個物に対する全体
   者の映像である。
  g.個物に対するこのような全体者は、一般に「環境」と呼ばれる。科学技術の発
   展に伴う環境破壊は、個物の一種である人間の科学技術的諸活動を支える西欧
   自然科学の手法(それは基本的には自然界の計量化である)と、全体者である
   環境の論理の不一致に由来する。
13.このように見ていけば『玄語』は必ずしも難解な書物ではない。それは地球生
   態系の論理的映像であり、人間的諸活動をも含めた「環境世界」の構築理論と
   なりうるものである。従ってそれは、人間的諸活動を制御するための論理でも
   ある。これは一般に「モラル」と言われる。『玄語』においてはその情報化が
   為されているが、これを専門に説いたものが第三主著『敢語』(かんご)であ
   る。第二主著『贅語』は、当時の思想を網羅的に批判したものである。

(補足)ヴィトゲンシュタインは「事実の映像」(あるいは「実在の論理絵」)とい
う思想を得ながら、自らそれを描くことをしなかった。それは彼が思索に用いた文字
がアルファベットだったからであると推測される。梅園は、奇しくもヴィトゲンシュ
タインがこの着想を得たのと同じ29歳に、世界の論理モデルを描きうるという確信
を得ている。梅園にそれが可能であったのは、思考に用いた文字が漢字だったからで
あると推測される。

1.3  『玄語』研究史の概略

  では、何故に『玄語』が、日本史上類例のない難読書とされ、また実際にその解
釈が困難を極め、極めて少数の例外を除いて未だに解読されるに至っていないかと
言うと、それは『玄語』の記述においては各語が上記のように整理されておらず、
やじろべえの頭と腕の球だけをすべてはずして、それを何かの器の中に入れてかき
混ぜたようなものになっているからである。梅園はそのことを「文(ふみ)は変化
に錯綜す」と書いている。文字通り錯雑としていて、どこを読んでも何を書いてい
るのかさっぱり分からないように書いている。これは自然界のありとあらゆるもの
がありとあらゆるものに関係していることの論理的描写であって、故意に読みづら
くしているわけではない。そのような記述が論理的必然性において要求されるとい
うことである。たしかに記述を整理すれば、

06393:   分天地〉則転持合矣〉
06394:       天體自虚〉
06395:       地體自実〉
06396:       貫転而直〉
06397:       徹持而円〉
06398:       不以動為形〉
06399:       直円混成〉
06400:   分転持》則天地合矣》
06401:       転気自精》
06402:       持気自麁》
06403:       貫地而為矩》
06404:       転天而為規》
06405:       不以静為形》
06406:       規矩粲立》  (「〉」は黒点、「》」は白点の代用記号)

のようになりうるが、この部分を江戸時代に書かれた写本で示すと下図の右のよう
であって、これでは記述の対称性は読みとれない。しかし、下図左のように文字の
配列を変えると、上記テキストと同様になる。ただし、黒点の文では「為」を2字
欠いている。三枝博音氏の訓読版では、こういう対称性はまったく分からない。三
枝は記述の対称性にはまったく気づいていなかったようである。ただし三枝氏の読
みは、梅園の指示に極めて忠実である。


  これに対して「図は条理に整斉(せいせい)す」と書かれている。『玄語』は図
と文が一対になった書物で、図と文が各々やじろべえの腕につけられた球になって
いる。図は円形に描かれているが、やじろべえ型の構造を持っており、それは、上
出の剖対反比図一合経緯剖対図に図示されているとおりである。
 これは今日的な言い方をすれば、2分探査法であるに過ぎない。梅園自身はこれ
を「条理」と名付けたが、要するに2分探査法である。従って『玄語』は、それ自
体がもともと知識工学的な観点から書かれた書物である。梅園がなぜ知識工学的な
観点を持つに至ったかは、今日なお謎であるが、それが日本の合理思想の一類型と
して、日本人の頭脳から自然に生まれたものであることは疑いを入れない。二十九
歳の時「始(初)めて気に観るあり、漸く天地に条理あるを知る」と梅園自身が書
いてあるとおり、これは独自の直感的な洞察であった。

  ところが梅園は、近世日本思想史においては独立学派として扱われることが多い。
進歩的であっても思想史とは隔絶した孤立無援の存在だというのである。司馬遼太
郎氏も20数年前の江崎玲於奈氏との対談でそのように語っており、今日に至るま
でその視点は変更されていない。そもそも司馬氏は梅園の思想を理解できていない。
広大な司馬史観においてさえ、梅園が取り落とされていたことは、日本人一般の意
識に三浦梅園が上ってこないことを意味する。その要因は大きく言ってふたつある。 
  第一に、日本思想史を専攻する人々は、おおむね中国哲学の正確な理解を欠いて
いる場合が多い。日本思想史界の巨峰である丸山真男氏においてすらそうである。
また逆に中国哲学の研究者は、日本の思想家、または日本思想史を軽視する傾向が
強い。従って、その歴史の大半において中国思想の影響下にあった日本思想を、中
国思想との正確な比較において見るという視点が立てられづらい。未だに、このよ
うな視点からの日本思想史研究は極めて希薄であると言って過言でない。

  ことに梅園がその思想的活動を行った江戸中期は、日本が中国の属国のような立
場から、西洋列強の属国のような立場に転換をする端境(はざかい)期であって、
このときが日本人が自らの力で世界について考えることのできた歴史的な空白期で
あった。梅園の後ほどなくして日本は「脱亜入欧」路線にはいり、今日に至るまで
その傾向は変わっていない。技術がもはや欧米の水準に達しそれを越えようとする
と、国家の方途を見失ってしまい、右往左往のありさまである。
  第二に、三浦梅園の先駆的な研究者である三枝博音(さいぐさ  ひろと)氏の著
した『三浦梅園の哲学』が、三浦梅園という辺境の思想家を広く世に知らしめるこ
とになったのであるが、いかなるわけか、この研究書は『玄語』の図(以下「玄語
図」)の存在について一言も言及していない。そればかりか梅園自筆本の『玄語』
の写真版を掲載していながら、それから丹念に図を削除している。まことに不可解
としか言いようがないが、これは左翼思想家であった三枝博音氏が、仏教の曼陀羅
図に似た「玄語図」を掲載することが、自身の「梅園哲学-弁証法」説に対する仏
教哲学界からの反発を招くことを予想したためと推察される。自身が僧侶の家に生
まれており、青年期は僧侶でもあった三枝は、仏教哲学の強力さを骨身にしみて知
っていたと思われる。三枝のこの著書が刊行されて以来、三浦梅園は日本における
弁証法哲学の先駆者として左翼思想界の中に取り込まれてしまった。今日なおこれ
が一派を為していることは嘆かわしいことである。
  後年、三枝氏のこの著書によって梅園を知り、梅園を非常に高く評価した故湯川
秀樹博士(ノーベル物理学賞受賞)の梅園研究に、三枝のこの原典改竄が甚大な影
響を与えたことを知る人は少ない。湯川博士は、主として梅園の文を三枝の訓読版
の『玄語』によって読んでいた。写真版まで掲載されているから、まさか160余
りの図があるとは思ってもみなかったであろうし、図と文が一対(pair)になってい
ることなど思いも寄らなかったであろう。
  晩年、三浦梅園旧宅を訪れた湯川氏は、初めて梅園自筆の『玄語』を見たとき、
「玄語図」を前にして「これなら分かる。これは原子モデルに近いものだ!!」と
叫んだという。この後、博士は立て続けに梅園に関する論文を書き、NHKで梅園
の紹介などもしたのであるが、ほどなくして病に倒れ、研究は頓挫した。また湯川
秀樹という強力なナレーターを失った後、梅園が茶の間のテレビに姿を現すことは
なくなってしまった。もし、湯川博士がもっと早い時期に「玄語図」を見ていたら、
独自の観点からの梅園研究が行われていたことと思われる。原典を改竄して紹介す
ることは、学者の良心に照らせば何をかいわんやである。三枝の業績は、梅園をヘ
ーゲルと同格の思想家として思想史に登場させることに成功しはしたが、それは左
翼思想界においてであって、その一方で科学的な観点からの梅園研究を葬り去った
という罪を負っている。しかし三枝の研究は軍部の圧制下に於いて為された研究で
あるので、その非を三枝ひとりに押しつけることは出来ない。またその背後に日独
伊三国同盟に至る国際情勢が反映されていたであろうことは想像に難くない。日本
にもドイツのヘーゲルに匹敵する思想家が居るという三枝の主張は、軍部の意向に
添うものであったであろう。しかし、敗戦後、左翼勢力に三浦梅園を取り込ませる
ことに成功したという点で、思想家三枝博音は軍事体制下の日本に勝利したと言え
るであろう。ここには思想の是非を越えた思想家の面目がある。
  梅園は、いまや知識工学という新たな分野で、おそらくは湯川秀樹博士が予想し
た形を越えて蘇ろうとしているように思われる。これは、ひとえにパーソナル・コ
ンピュータの普及と情報通信網の整備に負うところが大きい。  

(補足) 梅園の天文学が地動説か天動説か、はたまたティコ・ブラーヘの地心日
    心説かというような議論が長い間為されてきたが、いずれも荒唐無稽なも
    のである。というのは、地動説か天動説かといった議論は換言すれば「創
    造の神が創りたもうた宇宙の不動の中心は、地球であるか、太陽であるか」
    といったキリスト教圏の宗教的議論であり、宗教的背景の異なる東洋にお
    いて、それがそのまま問題になると言うことはあり得ない。運図・転図
    に見られるごとく、梅園は2分探査の手法に従って、地球中心の惑星の配
    列と太陽中心の惑星の配列を並列しているのであって、いずれかを優先し
    ているわけではない。
     ここに見られるものは知識工学的な手法であって、天動説から地動説へ
    の移行を中世から近代への進歩と見なすような思想史的な脈絡は存在しな
    い。
     歴史的問題として考えねばならないのは、何故に江戸中期の国東半島に
    おいて、このような合理的・知識工学的な思想が誕生したかである。梅園
    は弁証法哲学の先駆者であるのではなく、知識工学という学問分野の先駆
    者であると見なした方が良いと思われる。またこのような観点から、江戸
    期の諸学問、なかでもことに和算と博物学を見直す必要がある。日本中に
    印刷されていない膨大な稿本が眠っているはずであるから、それらを電子
    データベース化する作業が必要であり、そこから日本の合理思想を発見せ
    ねばならない。

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