【玄語元筆 復元途中 覚え書き】


梅園と黄鶴は訂正の仕方に明確な特徴があるので、かなりの確度で判別ができます。消し癖・書き癖・文のつなぎを
指示する線の書き方など、明らかに違います。たとえば、ぺりかん社版上巻154/155頁の訂正は、すべて梅園
のものと考えられます。同160頁の最後の行の訂正のうち、勢に続いて宅維と書いたのは梅園、前後を入れ替えた
のは黄鶴と判断されます。線の引き方が明らかに異なります。

  はなはだ下品な表現で申し訳ないのですが、これまで読まれてきた「玄語」はいわば偽ブランドの
  ルイヴィトンのようなものでした。そして偽ブランド「玄語」しか手に入りませんでした。本物は、
  まだ誰も見たことがありません。ですから「玄語」に関して何事かを論じるなど、誰にもできるは
  ずはないのですが、高踏的な議論だけが戦後60年以上も続けられてきました。学問は、基礎固め
  のために行うものです。梅園研究においては、その基礎固めが忘れられていました。


ぺりかん社版400頁の最初の部分です。著作権の関係があるので、ごく一部しかお見せできません。 蛍光ペンはスキャナに写らないので、画像ソフトのペンツールで上書きしました。従来の研究を凌ぐ 第一歩は、自分自身の研究のための資料製作です。
梅園先生の好きな読みの紹介です。 修(しゅう)す。 給(きゅう)す。 これは、最初から最後までこの読みで、訓読したところは一箇所もありません。 あれだけ音訓まぜこぜの読みをしているのだから、一箇所くらいあるだろうと思って 全部調べたのですが、ありませんでした。 要するに、シュー、キュー という音が好きだったんでしょうね。 中(チュー)という語も、当然ながら、「なか」とは読みません。 無内の中 ・・・ 無限小の一点    ~~ 中や北に中し南に中し、云々 ・・・ 地球の中心は、天の北極と天の南極に当り、云々 ~~ ~~ ~~ 転中、持中 ・・・ 天体の回転する領域、地表の昇降する領域 ~~ ~~ 頂の前後より。並び下りて髖に至るを中界と為す。 「中界」は人体の正中線のこと。 ~~ ただし、1箇所だけ例外があります。「ル」と送り仮名があります。 6812: 行止の規矩に中(あた)るは聖人の事なり ~~ 次は、「シ」と送り仮名があります。 12756: 権は経に合し。義は宜に適す。礼中し。智通し。用活し。応変し。 ~~ こういう細かいことでも、ぜんぶ調べるのに20分もかかりません。「中」で KUNsjis.txt(またはGENsjis.txt) を検索すれば、全部出てきます。そのあとぺりかん 社版で確認すればいいわけです。全部で960行あります。ここにアップしましたので ご覧ください。 「中」は全編で使われる重要な語なので、これから書き起こして、「玄語」全体を解説 することができます。 好きな文字、嫌いな文字、好きな音(おん)、嫌いな音から、性格が類推できたりす ることもあります(心理学的研究になります)から、読みは、非常に重要な要素であ るといえます。 その意味では、梅園の読みに忠実な、総ルビ訓読版も作る必要があります。 「結晶化した楕円思考」(末木剛博。『東洋の合理思想』増補新版「結論」より)とも 言える「玄語」の思想は、いつか必ず、世の認めるところとなるでしょう。
> 中や北に中し南に中し、云々 ・・・ 地球の中心は、天の北極と天の南極に当り、云々                    ~~~~~~~~~~ 地球の中心ではなくて「地軸」の方が適切でしょうね。「北軸」とも言います。 これに対して、黄道に垂直な軸を「南軸」と言います。 102.双弦弧図(そうげんこず) を参照してください。 年周運動と日周運動を一途に描き込み、かつ、東西南北という概念(2次元概念)を 天球規模に拡張(3次元概念)し、かつ、方位という静止した概念を運動方向に拡張 していますので、一見不可解です。 梅園流天球論です。
以下は欄外の訂正が採用されていますが、ほぼ、黄鶴先生の作文と思われるものが 混入しています。 梅園の元の記述は、もっと簡素で明快です。こちらを参照。 15821: G0010U-012 徴 天地に在るとは者。何ぞや。今 嘗みに日を挙げて人に問うて 15822: G0010U-013 是れ乃ち昜にして体を聚め能く地上をして灼然として昼なら使む 15823: G0010U-014 之に反するの状を索めよと曰わば。則ち彼れ必ず其の状を得て曰わん。 15824: G0010U-015 侌にして体を散じ能く天下をして瞑焉として夜なら使むと 15825:        既に探って其の主を得たり。影の体。其の人に具す。 15826: G0010U-016 又た雪を挙げて人に問うて。是れ乃ち冬にして水の凝りて而して 15827: G0010U-017 天より地に降りたる者之に反するの状を索めよと曰わば。則ち 15828: 彼れ必ず其の状を得て曰わん。 15829: G0010U-018 夏にして火の発し而して地より天に升る者と既に探って其の主を得たり。 15830: G0010L-001 雷の体 其の人に具す。是に於て我れ其の半を言いて。而して人其の半を知る。 15831: G0010L-002 徴 果して天地に在ればなり。 この中の、 15829: G0010U-018 夏にして火の発し而して地より天に升る者と既に探って其の主を得たり。 は、雷を地上から天に昇る放電現象と考えているわけです。 これは現代では間違いであることがわかっていますが、だからといって、雷を地球の放電現象と する見方を「非科学的」と言ってはいけませんね。この覚え書きを読んでいる人の中には、 いないでしょうが、ときどき、そういう議論をする人がいます。 科学的知識によって否定されたがゆえに、それは科学的知識であったわけです。 否定されたから非科学的だというのであれば、ニュートン力学は、相対性理論によって 否定されたから、非科学的だということになります。 科学的知識を受け入れない知識、たとえば宗教やイデオロギーがそうですが、それらは、 科学ではありません。(現在でもアメリカ人の3割?は天動説を信じています。) 15821: G0010U-012 徴 天地に在るとは者。何ぞや。今 嘗みに日を挙げて人に問うて の「嘗(こころ)みに日を挙げて」のもとの文は「嘗みに語を挙げて」です。この違いは 大きいですね。 「語」を「日」に訂正した人(ほぼ間違いなく黄鶴先生)は、実在と、その写像としての 語と命題の区別がついていないんですね。 梅園先生は、一方の命題をあげて、他方を問えば、人は、他方の命題を上げ、それは、 条理の対を成し、実在の写像になる、ということを言いたいわけです。 15822: G0010U-013 是れ乃ち昜にして体を聚め能く地上をして灼然として昼なら使む 15823: G0010U-014 之に反するの状を索めよと曰わば。則ち彼れ必ず其の状を得て曰わん。 15824: G0010U-015 侌にして体を散じ能く天下をして瞑焉として夜なら使むと 15825:        既に探って其の主を得たり。影の体。其の人に具す。 15826: G0010U-016 又た雪を挙げて人に問うて。是れ乃ち までは、欄外に書かれており、訂正者の作文です。いきなり実体を挙げ、それはかくかく しかじかだ、これに反するものは何か?と問うている。 さらにおかしいのは「影の体。其の人に具す。」という一文で、これは理解不可能。 その人、暗闇に化けるの??? 意味不明。 実在とそれを写す命題の区別がぜんぜん付いていないのです。
1.ぺりかん社版「例旨」51頁、右3行見せ消ち。(3.の[  ]の中の文。) 2.ここは、写本939右頁の初めの3行の見せ消ちなし。 3.資料館に問い合わせていたのですが、連絡によると、見せ消ちの傍線は墨である。 下の は、朱書であるということです。   ~~~~~~                              16024: G0014U-017                    [況んや百家をや。仮に 16025:        水穀塩蔬の用無くんば。之を牛溲馬D敗皷皮に若かずと謂う可きや。 16026:        是を以て晋は則ち忌わざるなり。贅敢に至って先達を称う。官号名字。                           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 16027:        筆を信じて之を書す。意に軽重を含むに非ず。]            ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4.岩波版385頁、上段最後の行では、見せ消ちは記載されていない。 ということは、黄鶴先生は、最初のうちは、朱書で訂正していたが、版下本製作の前あたり (少なくとも写本939成立後)からは、墨書で訂正を始めたということになります。この 時点では、黄鶴以外に訂正者は居ませんからこの部分が、動かぬ証拠になります。 こうなると、朱と墨の使い分けから、梅園の訂正、黄鶴の訂正という区別もできなくなるので、 訂正は一文字残さず巻末の注に回すほかなくなりました。 それにしても要らんことをしてくれるわ・・・・ 「玄語校訂のなぞを解く」という短編推理小説が書けますわ・・・・ 黄鶴先生、自信を持つのも程度問題ですわ・・・・ 弘がイラつくのも無理ありませんわ・・・・
「玄語」「例旨」に「附言」とされている部分があります。 この文字は、どこにもありません。岩波版を見ると、 # 版下本にはないが、梅園全集に習って(安永本附言)とした、という意味のことを 書いています。(田口正治注) ということは、版下本にもないわけです。自筆に無い、写本939に無い、版下本に無い、 梅園全集にはある・・・・ ということは、藤井専随の命名ということになります。 ということは、厳密には、岩波版は、田口正治版ということになります。 誤解を生じるといけないので、田口先生の「校異」から引用しておきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  三八七 上5 安永本附言      以下は版下本にはないが、安永本に従ってここに載せた。なお、「附言」の称は、  『梅園全集』に倣った。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり、安永本「例旨」の終わりに載せられている文章を版下本の「例旨」の末尾に付け て、それに『梅園全集』から「附言」の文字を借りて、( )で括って、「安永本附言」 としているわけで、この組み合わせを行ったのは、田口正治先生だけだということです。 なお、「例旨」は安永本体系図によると「附例旨」として体系図の左に書かれていますか ら、これを西洋の書物の序文・前書きのように最初に持ってくるのは、間違いでしょう。 西洋流に倣ったのでしょうが、内容的には、解説です。西洋の本は、解説を最初に持って くるのでしょうか? 合点がいきません。 ---------------------------------------------------------------------------------- 補足です。 「例旨・附言」に、以下に関連する記載があります。 > 中や北に中し南に中し、云々 ・・・ 地球の中心は、天の北極と天の南極に当り、云々 >                   ~~~~~~~~~~ > 地球の中心ではなくて「地軸」の方が適切でしょうね。「北軸」とも言います。 > > これに対して、黄道に垂直な軸を「南軸」と言います。 16229: G0018L-002 西中東中、西線東線は、卽ち赤道黄道なり。 16230: G0018L-003 守軸環軸は、卽ち赤軸黄軸なり。処に従いて其の声(名称)を異にす。 16231: 主(指示対象)の異に非ざるなり。 地冊没部/機界の冊/転持/天地水火/には、 5946:  故に北軸(地軸)は常に守る 5947: G0123U-014 南軸(黄軸)は常に環(めぐ)る 5948: 環る者は其の行遅し 5949: 守る者は其の行疾し且つ 5950: G0123U-015 西する者は気(主に昼夜)を転じ、東する者は象(天体類)を運す 5951:  象は東旋(年周)に由りて運すと雖も。亦た各自の行を為す。 5952: G0123U-016 日なる者は、象の主なり。路(軌道)は東中(黄道)に縁(よ)る。
校異の作成を始めました。のっけからいろいろあります。 106: 闕能体物而立其二 107: G0021L-014 具能性物而活其一                ~~~~~~~~~~ 而活其一は、もとの文は、而露具一です。 【これまで通用してきた文】 106: 闕は能く物に体す而して其の二を立す 107: G0021L-014 具は能く物に性す而して其の一を活す 【もとの文】 106: 闕は能く物に体す而して其の二を立す 107: G0021L-014 具は能く物に性す而して具一を露す 具には何の訂正も傍記も無いので、其と読み間違えたんでしょうね。 私も「活立」という記述の対称性に騙されていました。一見きれいですからね。 ここは、訂正前の「而して具一を露す」が正解です。       人間  -----具一(性)       /\      男  女 -----欠二(体) となるわけですが、人間が活動して男女が活動しないなんてことはないでしょう? 活動するのは、お互いが持つものをお互いが欠落しあう関係の陰陽の関係にあるもの であって、これは欠落がもたらす運動であるわけです。 これは、末木先生の言われる「楕円の運動」(男女というふたつの中心を持つ相互運動) であるわけです。その総体が人間の活動であるわけです。もとの文は、それを「露」すと 書いていたわけです。 男女を総合したものとしての「人間」は、男女というもの(物)に共通して具わって いるもの(具一)です。それが露呈するという意味で「而して具一を露す」と、梅園 先生は書いたのです。 私は、全部の訂正を見ましたが、その特徴は、 1.一貫性がない。 2.(同じことだが)全体に散漫としている。 3.確信をもてないままの訂正がかなりある。 4.表面的な整合性にとらわれている。 黄鶴先生の作業の中で採用できるものは、安永本と浄書本の最新版を組み合わせて 全八冊にするという編纂の枠組みと、落字の訂正だけです。 その他は、すべてペケと思ったほうが良いです。 安永本成立直後の写本が発見されるまでは、この組み合わせを暫定版とするしか ありません。
どなたかお分かりになりますか? 梅園自筆がこうなっています。 8885: G0175L-014  星漢は変動の物を以て静虚の景に居る故に其の脈絡を一にす 8886: G0175L-015 月辰は各侌の物を以て変動の日に頼る故に其の脈絡を別にす是を以て                      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (「景」は太陽の光の領域のこと。日影図の中央の白の領域。この中に太陽系の惑星が入る。   「月辰」は月と太陽系の惑星。) 【辰の参考文】 6952: G0140U-001 辰は暗体を以て而して景中に重なる 6953: 星は明体を以て而して影中に列ぶ (訳) 6952: 惑星は光を発しない星で、太陽の光の届く領域に重なっている。 6953: 恒星は光を発する星で、太陽の光が届かない暗闇の中に並んでいる。 「辰」で検索すると69行でてきます。暦学関係を除けば、どれも似たような意味です。 ここから性急にティコ説を持ち出すと、「運図・転図」に矛盾します。この図では、金星(太白) が、太陽を回るように描かれていますが、これは添付ファイル4番目の図を見れば観測上は問題 ないことがわかります。この図の白黒の点線みたいのは、満ち欠けがあることを示しているので しょう。月と地球と水星(辰)と金星(太白)ですね。 「金星の観測モデル」ウィキペディアから では「変動の日(にち)」の「変動」とは、何を意味しているのでしょうか? もっとも、太陽から見れば、地球は「変動の地」でしょうから、難しく考えることもないか・・・ 梅園先生には、ふたつの顔があります。 1.謙虚な梅園先生 5697: G0119L-001 北人左右の利鈍は、 5698: G0119L-002 南人の反を為すか。 5699:  或いは佗に反する者有りて我れ未だ識らざるか。 5700: G0119L-003 姑く存して他日を待たん。 (訳) 北半球の人の利き腕の違いは、南半球の人と反対だろうか? あるいは、ほかに反対のものがあって、私がまだそれを知らないのだろうか? しばらく保留しておいて、確証を得られるまで待つことにしよう。 2.絶対こうだと断言する梅園先生 9028: 月は水を体すれば則ち 9029: G0178U-003  諸辰の景中に在する者は皆な水を体するなり 9030: 日は火を体すれば則ち 9031: G0178U-004  衆星の影中に在する者は皆な火を体するなり 月は水の性質を持っている(潮汐と関連させている)から、太陽系の惑星は、 どれも水と関連しているはずだ。 太陽は天空の火であるから、暗闇に光る星は、どれも天空の火であるはずだ。 「体する」をうまく訳せないのですが「他日」どころか「後世」を待たねばならないのは 天文学(地冊・露部)のほうでしょう。 麻田剛立にこんなことを話したんでしょうが、剛立は「見たことないから知らん」 としか言いようがなかったでしょうね。 剛立は「何分にも条理のことは先生にお任せ申し候」という意味のことを手紙に書い ていたと記憶していますが、これ、要するにさじを投げているんですよね、 「わしゃ、知らん」と・・・・・
大気と液体と解釈すれば・・・ > 2.絶対こうだと断言する梅園先生 > > 9028: 月は水を体すれば則ち > 9029: G0178U-003  諸辰の景中に在する者は皆な水を体するなり > 9030: 日は火を体すれば則ち > 9031: G0178U-004  衆星の影中に在する者は皆な火を体するなり > > 月は水の性質を持っている(潮汐と関連させている)から、太陽系の惑星は、 > どれも水と関連しているはずだ。 > 太陽は天空の火であるから、暗闇に光る星は、どれも天空の火である。 9028: 月は水の性質を持っている。だから、 9029: G0178U-003  太陽系の惑星は、どれも水と関連している。 9030: 太陽は天空の火である。だから、  9031: G0178U-004  暗闇に光る星は、どれも天空の火である。 地球には、大気と海(燥 sou と 水 sui)がありますが、他の惑星でも 大気と海(あるいはその痕跡)が発見されていますから、気体と液体という風に 拡張解釈すれば意味は通りますね。恒星にはそれはない、と・・・・・ 熱発する恒星と冷寒する惑星が、それぞれ共通して持つものとして陽気と陰気が あり、陽気を「火」と命名し、陰気に「水」(液体)と命名したのかもしれませ ん。 そも「水」とは、何ぞや? 我々が、経験的に知っている「水」は、命題を構成する語の対象と完全一致する ものなのか、検討する必要があります。論理の対象と経験的対象とは、別物です からね。 天球規模での「水火」は、「華液」kaekiと言いますが、「玄語」では、よく混用 されています。上の文が良い例です。 88b.天地華液図一合(裏)(てんちかえきずいちごう) 「玄語」に秘められた<未知なる世界>ですね・・・・
> 5574:と5575:は、「体」と「用」の対を作ったんでしょうが、もとは「を有す」と「に有り」 > で対になっています。ここでは「読みの対」があるわけです(実は新発見)。 > > @ 語が同じ場合は読みに注意!!! 返り点、送り仮名まで表現の道具にしている(返り点、送り仮名は主としてレトリック。 上記は、例外的に対を表す)という点で、「玄語」は日本漢学の粋のひとつであるとい えるかもしれません。 たんなる読みのガイドとしての機能を超えてしまっています。 ただし、このレトリックは、中国や台湾の人などには、通用しません。 15478:        文は変化に錯綜す 15479: G0004U-013 図は條理に整斉す(後文略) 「え? 文も条理に整斉していますね」って、必ず言われることでしょう。 だから、日本漢学の粋と言えるわけです。他国の人には、絶対にわかりません。 翻訳不可能です。 だから、三枝版のような読み下し版も必要であるわけです。
×で頁ごと抹消したのも、黄鶴先生である可能性が出てきました。 参った・・・ ぺりかん社 上巻 156頁以降・・・ 親亀こけたらみなこけた、ということになりそうですね。『梅園全集』発刊以来 みな、こけ続けたと・・・・
15569~15602 が、ぺりかん社版から欠落しています。見開き左右頁です。 ひょっとしたら、湿式コピーの段階での欠落かもしれません。こういう作 業は集中力の持続が難しいというか、途中で必ず雑用が入るものなので、 やむを得ません。           この「水」が、前のページの最後の字。            ↓            ↓ ここから欠落。 15569: G0005L-012 水『以門戸出入。則気亦以門戸出入。 15570: G0005L-013 既已空無。豈以門戸為哉。 15571:        已有由門戸。已與物争居。 15572: G0005L-014 非厳然充且有者哉。 15573:        雖充而有。而闃無声臭。是廼気之謂也。 15574: G0005L-015 而物與我。亦遊斯中。而 15575: G0005L-016 鳥獣之所居。魚鼈不居。 15576:        彼来此輒死。此之彼輒死。 15577: G0005L-017 以此観彼。以彼観此。反而能同焉。 15578: G0005L-018 我在此中。試執縄一條垂。 15579:        無圧無援。而直下正立。 15580: G0006U-001 観此気之直。試以革嚢鞠。 15581: G0006U-002 充気於内。塞外出之罅縫。則 15582:        雖千鈞以墮之。而不※焉。 15583: G0006U-003 観此気之持。嚢破。則爆然為風。 15584: G0006U-004 以知風者此気之動焉。 15585:        隔風。則覚煦煦焉。 15586: G0006U-005 以知温者此気之静矣。 15587:        物入水則湿。在此則燥。故 15588: G0006U-006 命名曰燥。観其與水相拒。則 15589: G0006U-007 雖気乎有体。有体者。得処而居。 15590:        今此雖空于質。而空以成体也。夫 15591: G0006U-008 已得其処而居。已與物争其処。則 15592: G0006U-009 気亦物也已。物莫非気。気莫非物。 15593: G0006U-010 気以散而虚体。非無体也。 15594:        物以気而結実。非不気也。 15595: G0006U-011 前之可見之体者。麁体也。 15596: G0006U-012 漠然者。精体也。 15597:      知麁而不知精。※在知物。 15598: G0006U-013 其未知物。※在知気。 15599:        気麁則体露 15600:        気精則体没 15601: G0006U-014 没而為鬱D之神者徳性 15602:        成而露混淪之『体者天地                   ここから24頁になっている。 この頁の最後の行の一番下の「水以門」の「水」から、 この頁の後ろから5行目の「混淪之」の「之」まで。 ここは、割注がないので、写本と全集で補えます。 私の総ルビ版も、実にボロボロと、ボロが出ています。こういうときに、 印刷物というのは、訂正が大変ですね。電子文書は、簡単でいいです。
興味深い訂正(検索による類推の一例) 620: 徴之於火以体之虚而出升 621: G0033L-003 水以質之密而降入焉 (ぺりかん社 下巻 326頁) 検索用の読みでは、 620:       之を火は体の虚を以て而して出でて升り 621: G0033L-003   水は質の密を以て而して降りて入るに徴す この文の「之」は、もと「端」とあるのを○で見せ消ちにして右に「之」と書いて 訂正したものです。「端」については、「例旨」に、用例の説明があります。 15518: G0005U-001 今 一を挙げて万を例するとは。其の端を示すなり。 つまり、訂正した人は、「之(これ)を・・・・徴す」としたのですが、 梅園は、「端(たん)を・・・・徴す」としているわけで、平たく言えば、 # 一例として、火が固定した形を持たずに上昇し、水が(火や蒸気より)密度が   高いことによって(たとえば雨として)降ってきて最終的には海に入るという   現象を事例としてあげることが出来る。 というような意味になります。620:621は、「端を示す」文章であるわけです。 ということは、「端」を「之」に訂正した人は、梅園その人ではないと推測されます。 また、浄書本「玄語」「本宗」では、梅園自らが否定した陰陽という字が、わりあい 無造作に使われています(ぺりかん社版 下巻 322、325頁)。同じ頁に、こざとへ んのない「in昜」があって、訂正をしている人が、こざとへんをつけてはまた消した としか思えない訂正もあります(ぺりかん社版 下巻 324頁 最後の行。白抜けは鉛 筆かなにかでつぶしてください。確認済みです)。 このあたりでは、「陰」は「液」に、「陽」はすべて「華」に、「陰陽」は「華液」 に訂正されています。この訂正は、脈絡上は間違っていませんが、梅園が易(えき) の陰陽論まで呑み込もうとした可能性もあります。 訂正は膨大ですが、情報処理的な手法(統計的な手法)によって、訂正した人が梅園 ではないということを立証するには、膨大であるほど好都合(特性がより明確に現れ る)ので、訂正そのものが、ひとつの研究素材として浮かび上がってきます。 この場合、漢文が読めるかどうかは関係ありません。パールやルビーその他による検 索プログラムが組めるということが条件になります。 重要な条理の語の分布(全体に均一に使われている語もあれば、特定の編に密集して 使われている語もあります)から、編や語の意味の割り出しが出来ます。 語の分布は、グラフで表せばよいので、さらにグラフごとの特性から、「玄語」という 書物の特性を推測することも可能になります。 こういう手法は、指紋から犯人を割り出すようなもので、素材が十分にあれば当たる 確率は高いです。
梅園がニュートンにやや遅れてはいますが、似たようなことを考えていたと推測される 文があります。 648:       持を推し転を察するに。 649:       象は猶お質のごとし東は猶お下のごとし 650: G0033L-018  転は猶お持のごとし西は猶お上のごとし 持---地表の昇降運動 転---天体の回転運動(ここでは日周運動のこと) 象---しょう。天文現象。 質---大気圏内にあるものが共通して持つ「含水性」のこと。また地表・地表近く     にある諸物体・諸現象の総称。 東・西---ここでは、日周運動の方向。 北林訳:地上の昇降運動から天体の回転運動を推察すると、     天文現象は(どんどん遠ざかって消えてしまうわけではないのだから)まだ     (その場に留まっていることにおいては)地上にあるものと変わらない。     日周運動における東は、下のようなものだ。     天体類の回転運動は(結局はもとの位置に戻るわけだから)、地表の昇降運動と     変わらない。日周運動における西は、上のようなものだ。 梅園が、天文現象と地表の現象、天体の回転運動と地表の昇降運動を「相い反するもの ではあるけれども、結局は似たようなもの」というふうに捉えていることが分かります。 類比性における把握 ニュートンが、ケプラーの法則から万有引力の法則を思いついたのは、1600年代半ば のことだと思いますが(プリンキピアの発表は1687年)、梅園もそれから半世紀くら い遅れていますが、昇降運動と回転運動を全く別の運動とは見ない(=類比性を見る)と いう視点を獲得しています。 梅園がニュートンの業績を知っていたか知らなかったか、という点については、まだ 何も分かっていませんが、西欧の情報は、早ければ、ほぼ10年後には日本に届いて いたようですから、ひょっとしたら知っていたかもしれません。 日周運動  年周運動 102.双弦弧図(そうげんこず) における「南-南」軸の傾きが30度であることから、これは1年かけて反時計回りに 1周すると考えられます。(3Dイメージにして動かすとすぐに分かるはずです。)
「玄語」の時空間論は、時空を不可分一帯と捉えるところが相対性理論と近似しています。 次のような文は、特に強く印象付けられます。 728:       世世相い望めば則ち既往を今に於て観る 729: G0035U-005 時時相い継げば則ち将来を今に於て観る <語彙> 既往   --- 既に往く 今(こん)--- いま。現在。現時点。 将来   --- 将に来たらんとす。未来の近傍。現在化の手前にある未来。 時時   --- 時系列における時間点。 継げば  --- 継続すれば。 729: に対応する、もっと高度な比喩的文例。 4512: G0100U-016 一盞の燈。徹夜、其の観を変せずと雖も、 4513: G0100U-017 一條の水。終古、其の流を改せずと雖も、而れども 4514: 前火は後火に非ず後水は前水に非ず。 これは、時間の継続性の比喩ですが、実に見事で、非常に感銘を受けた文です。 729:が時間についての記述であるならば、728:は、空間についての記述であろうと 思われますが、これに対応する例文は、すぐには思い出せません。 「多賀墨卿君にこたふる書」には、 257: 其の古き解に、言の病ありというは、大物に六つと定まれる数もなく、古往き    、今来たるという言も、是れより已往(いおう)をいい遺せり。            とあって、「古往今来」(こおうこんらい)という時系列の流れ以外に、已往(いおう。 すでに往く)があると書かれていますが、この語に対する説明がありません。梅園得意の 謎掛けです。 「既往」も「已往」も<すでにゆく>という意味ですから、これは、空間との関係におけ る時間現象だろうと推測しております。この推測を立てて30年近くになりますし、その 後、「玄語」を数回以上読み、数回以上編集しましたが、いまだにこの解釈を覆す文例に 出会っておりません。 たとえば、江戸から麻田剛立の手紙が届いたとします。詳しいことは知りませんが、一ヶ月 くらいはかかるでしょうか? その間、剛立にとっては、「手紙を出した」ということは 過去の出来事になります。しかし、梅園はそのことを知りません。返事ならば、もうそろ そろ着くはずだ、という思いが募ったりはしたことでしょう。 私は、これが、「世世相い望めば」の意味だと考えております。手紙は、着々と梅園のも とに近づいております。それはすでに出されたものですから、過去のものでもあるはずで す。しかし、梅園にとっては「将に来たらんとす」るものであるはずです。 「世世」は、上の例で言えば、江戸と国東ということになります。 728:       世世相い望めば則ち既往を今に於て観る(空間移動の記述) 729: G0035U-005 時時相い継げば則ち将来を今に於て観る(時間推移の記述) という対だと私は考えております。 では、「未来」(未だ来たらず)は、いかなる時間かということが問題になります。 上記の類推が正しければ、これは空間移動を伴わない時系列における概念であることに なります。たとえば、「この苗木はいつか巨木になるだろう」と言う時、その巨木は、 可能性としてその苗木に胚胎されていますが、まさに「未だ来たらず」で、そのときが 来るまで待つしかありません。 西欧の品々が海の向こうから出島にやってくる。これは、当時としては、きわめて大規 模な移動です。 手紙を運ぶ飛脚を光に置き換えれば、これは相対性理論に近い発想であることになります。 この解釈が梅園のものと異なっている可能性はありますが、この解釈を条理の体系が 拒絶すると思われたことはありません。
たぶん、黄鶴先生だと思いますが・・・・ 798:       水は地上に在り 799: G0036U-001 日は天中に在り然れば則ち <北林訳> 798:       水は地上に在る。 799: G0036U-001 太陽は宇宙空間に在る。そうであるならば、つまり 一見正しい文ですし、私も疑っておりませんでした。しかし、ぺりかん社版 331頁の真ん中の一番下の訂正を見ると、地 が 日 に変更されていま す。つまり、もとの文は、 798:       水は地上に在り 799: G0036U-001 地は天中に在り然れば則ち <北林訳> 798:       水は地上に在る。 799: G0036U-001 地球は宇宙空間に在る。そうであるならば、つまり となります。訂正前は、存在の場所を拡張していく文になっています。 訂正後は、存在の場所を対比させる文章になっています。 ただし、地球も太陽も宇宙空間に浮かんでいるんだから、どちらも間違いでは ありませんが、黄鶴先生の訂正である疑いがあります。 もうひとつ、もっともらしい訂正。 788:       既に専主有れば。華液の新名。以て汎称す可し。 訂正前は、「汎称」ではなく「専称」です。これも331頁の4行目の上にあります。 汎称 --- 総称。広く唱えること。一般的呼称。 専称 --- それ専用の呼称。 ここは「専称」です・・・・ 「玄語」全編が、こんな調子です。小冊はもっとひどいです。 黄鶴先生の訂正の特徴は「意味がぼやける」ところにあります。 半分わかっているが、きっちりとはわかっていない人の訂正というのは、 ぜんぜん分かっていない人の訂正より始末が悪いです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~↓~~~~~~~~         こういう訂正もほんのちょっとあります。         後世の落書きかもしれません。 前にも書いたと思いますが、30年読み続けていて、気づいたのは、一ヶ月 ちょっと前です。記録を見ると11月26日であることが分かります。
ぺりかん社版 332頁 最後のゴチャゴチャの書き込みの終わりの部分が見えません。 読めないのではなく、写っていないのです。 こういう場合は、閉じの隙間に字が隠れていることが多いので、 自筆稿本を確認するしかありません。 最後の文字が、「二圓相合。居宇行宙。」であるらしいことは、全集版、岩波版から 分かります。こういう場合、印刷物は資料として重宝します。写本でも この頁を見ると「二圓相合。居宇行宙。」と成っています。 しかし、ひょっとすると「二圓相合。」は「二圏相合。」かもしれません。
自筆稿本のどこにも書かれていないが、写本939・梅園全集・岩波版の「玄語」には あるという、奇妙な文がときおり見られる。 版下本作成時の黄鶴の作文としか考えられない。 一八三五   理氣豈條理之正對哉。(豈:あに。反語の助字。どうして…しようか。)        (理氣、豈に條理の正對ならんや。理と気がどうして条理の正しい対であろうか。) 一九一九~二三 知理之所在。而循之者智也。(理の在る所を知りて、而して之をめぐらす者は智なり。)         譬之理猶燭也      (之を譬えるに、理はなお燭のごときなり。)                       智猶目也      (智はなお目のごときなり。)         燭照而目得視也。     (燭照らして、而して目 視るを得るなり。) そのうえで次の2行を抹消している。自筆本には、抹消の跡は無い。 助辞をほとんど片端から取り除く。文脈を変える。文を作り変える。こういうのは、 「校訂」とはいわない。改竄である。 何を考えてこんなことをしたのだろう? 梅園先生も、安永本脱稿時に写本(バックアップ)を遺しておくべきだった。 全体の写本(バックアップ)はおそらくは無いと考えたほうがよい。 部分的には遺されているが、それを寄せ集めるよりも、現在の復元作業のほうが、 効率がよい。寄せ集めて全体になるかどうかわからないし、結局、自筆元筆と 突き合せねばならないからだ。
黄鶴の校訂を判別できるようになって、改めてぺりかん社版を見直すと相当に 間違っていることが分かります。 これは、黄鶴の訂正に従うと二行一対の形式が崩れる場合や、条理語の対が崩 れる場合から、判定できます。 したがって、これでまで刊行されてきた『玄語』は、すべて黄鶴の間違いをそ のまま踏襲しています。(写本に関しては、踏襲しているものとしていないも のがあると予想されます。) 国の重要文化財ですから、この点は、明確にしておかねばなりません。 最終的には、資料館が、詳細な校異を作らねばなりません。 それは、安永本八冊と浄書本三冊に関して作られねばなりません。 現在の私の作業は、現行の全八冊が、梅園の遺志を継いだ上での、黄鶴の作業 であろうという善意の仮定の上に成り立っています。 面白いのは、付箋から、矢野弘がかなりイライラしているように感じられることです。 しかし、義父の黄鶴には、あからさまに「あんた、わかっちょらんね~」とは、書けま せん。 43歳で没したことが悔やまれる人物です。
ぺりかん社版 下巻430頁をご覧ください。 黄鶴先生の抹消オンパレードです。 60パーセント以上抹消された文から意味が読み取れると思いますか??? またさらに重大な資料上の事実がいくつか浮かび上がってきています。
以、故、是以、是故、而、於是、・・・  など、黄鶴が抹消したに違いない助辞、接続詞が余りに多いため、これまで「玄語」 を読んできた人たちは、ちょうど、句読点を三分の二くらい消された文章をそれぞれ に誤読してきたような読み方をせざるを得なかったと思います。 梅園が、これらの語の用法を定めて使っている可能性もあります。そうなると、なお さら、文脈が読めなくなります。 【「玄語」における助詞・接続詞の用法について】 というアプローチで、立派な修士レベル、あるいは博士レベルの論文が書けると思わ れます。これらの語は、偏りなく全編で使われているので、これらから「玄語」全編 を解説することができます。 以   の前後の文または文の集合すべて。 故   の前後の文または文の集合すべて。 是以  の前後の文または文の集合すべて。 是故  の前後の文または文の集合すべて。 而   の前後の文または文の集合すべて。 於是  の前後の文または文の集合すべて。 その他の助詞・接続詞 の前後の文または文の集合すべて。 は、結局、「玄語」全文となります。そこには三段論法のような証明の手順があるか も知れません。しかし、現状ではそれは大半が消し去られ、意味不明の語と文の団子 状態になってしまっています。 現状の「玄語」は、<< 意味解析不能状態 >> にあります。 似通っているように見えれば、どんな学説でもまかり通る状態です。 ただ、三浦梅園は、「例旨」にこう書いています。 15411: 天地と合するを求めて、而して定説を顧るに暇あらず。 15412: 惟だ冀う、人の習する所に病まず。以て向う所に活し、而して 15413: 之を是非するに天地を以てし、之を取捨するに天地を以てし、 15414: 門戸を護り、区域を画し、他の賢哲を禦ぎ、而して 15415: 此の赤子を外にせざらんことを。故に儻し此の語を読む者。 (儻し=もし) 15416: 専ら旧の見聞に証し。専ら古の訓古に拠らば。則ち 15417: 晋の罪を獲ること。亦た多からんとす。 <北林意訳> 15411: 実際にある世界と一致することだけを考え、定説を参照する時間がなかった。 15412: ただこいねがう。習ったことに染まることなく、探索する所に精神を活動させて、 15413: この学説の是非を論じ、これを取捨するには、実在する世界によってこれを行い、 15414: 学流を守ったり、他の学説と隔てたり、他の賢哲を仰いだりすることによって、 15415: この書を埒外に置かないでいただきたい。だから、もしこの書物を読む人がいたら、 15416: 過去の見聞に照らし合わせたり、古来の語の解釈によってこの書を読めば、それは結局、 15417: わたくしのあやまちをさらに拡大することになるだろう。 ところが、予想もしない方向にこれをゆがめたのが、息子、黄鶴でした。その予期しない歪曲 の上に、あって欲しくないと願っていたあやまちが積み重ねられていきました。 ・・・これは日本思想史における、ひとりの天才の悲劇です・・・
梅園は、ファイル構造を意識して作っていたと思われる文があります。 【綱で全文検索した場合から興味深い例】 3514:        綱は目を繋ぐ 3515:        目は綱を成す 4870:   [通塞] 経緯なる者は條理の大綱なり。 16033: G0014L-005 則ち後世綱目の設と相い似て亦た同じからず。目は、専ら綱を守る。 16150: G0017U-003   宇宙転持を綱と為す 16153: G0017U-005 天地華液を綱と為す一二分合の別より之を剖せば宜しく先づ 【目で全文検索した場合から興味深い例】 16033: G0014L-005 則ち後世綱目の設と相い似て亦た同じからず。目は、専ら綱を守る。 16111: G0016U-008 玄語の次目は一に條理に従う。贅語の如きは。 16144: G0016L-017 二部四界。天界の目を宇宙と曰い方位と曰う 16145: G0016L-018      機界の目を転持と曰い形理と曰う之を没部と為す 16146: G0017U-001      体界の目を天地と曰い華液と曰う 16147:             性界の目を日影と曰い水燥と曰う之を露部と為す而して これには、主に安永四年本成立以前の稿本からの転記も含まれています。 しかし、【部】【界】【綱】【目】 などが階層化されていることが推測できます。 「後世綱目の設と相い似て亦た同じからず」というのは、これまでの説とではなく、 「これから書かれる書物の綱目とは似て非なるものだよ」ということです。当然、 これまでの説とも違います。 こういうことを問題にした人は、これまでひとりもいませんでしたね・・・ 【部】【界】【綱】【目】 が、どれに該当するかがきちんと分かれば、それは 「玄語」の設計の方針が分かったことになります。 設計の全体図は、一目で分かります。 ただし、これは黄鶴製造本舗の偽ブランド「玄語」から作られたものですから、 見直さないといけません。
排中律でも弁証法でも説明できない文(時空の変換) G0107U-010(『梅園全集』107頁 上段 10行)~ 4911: 既已(すで)に物を露わせば則ち小の小と雖もなお破る可きなり而して 4912: 中は則ち破る可からず 4913: 破る可からざる者に非ざれば 4914: 奚(いずく)んぞ天地を載せて撓まざるを得ん 4915: 既已(すで)に頃(けい)を刻すれば則ち短の短と雖も猶お剖く可きなり而して 4916: 今は則ち剖く可からざるなり 4917: 剖く可からざる者に非ざれば 4918: 奚(いずく)んぞ万露を湊(あつ)めて遺さざるを得ん <北林訳> 4911: すでに物体が空間の中に露われれば、どんなに小さいものでも、どこまでも分割すること     が出来る。しかし 4912: 無限小の一点は、分割不可能である。 4913: 分割不可能のものでなければ、 4914: どうして全世界を載せて変形せずにいることが出来ようか? 4915: すでに時間を刻めば、どんなに短い時間であっても、どこまでも短くすることが出来る。     しかし、 4916: 現在という一瞬間は、それ以上短くすることは出来ない。 4917: それ以上短くすることが出来ない時間でないののならば、 4918: どうして全宇宙の存在をその一瞬間に集めて、過去にも未来にも遺さずにいること     ができようか。 ここでは、一瞬から全空間への全転換(反転)が為されています。この反転は計量を伴いま せんので、論理的反転というのが妥当であると思います。対応する概念が物理学、あるいは 数学の中に在るはずです。(群論あたりか??) この全転換の基点が「いま」と「ここ」、つまり「今中」(こんちゅう)です。ここにおいて 論理による時間と空間の融合と切断が為されます。そこが万物の存在場所であるわけです。 ここにおける、時間から空間へという「正反対のものへの反転」(一瞬から全空間へ)と「反 転したものの絶対的な融合」(すべての'いま'と'ここ'における時間と空間の融合)は、排中 律によっても弁証法によっても説明できないと考えています。 4916: 今は則ち剖く可からざるなり 4917: 剖く可からざる者に非ざれば 4918: 奚(いずく)んぞ万露を湊(あつ)めて遺さざるを得ん から、末木剛博先生は、梅園の時間論を「時間現在説」と解釈されたことがあります。 が、「玄語」の時間論・空間論は、まだ奥が深く、構造的なのです。その時間と空間の上に すべてのものがそれぞれの場を得て、存在します。時間に存在するものを「神」(しん) といい、空間に存在するものを「物」(ぶつ)といいます。 では、物理学とは何ぞや? それはまさに「物の理の学」であって、それは「神」(しん) を語ることのない学問です。 特殊相対性理論は偉大な業績でした。それは「物の理」の外に置かれていた時間と空間 (物理学においてはニュートン、哲学においてはカントはこの立場)を「物の理」の中に 取り込んだことにおいて偉大でした。 つまり、アインシュタインは、西欧の歴史の中で初めて、時間と空間を取り込んだ理論 (時間と空間はその理論の枠組みの中にある)を構築することに成功しました。 しかし、三浦梅園は、江戸中期において、時間と空間を取り込む枠組みを既に構築してい たようです。
ぺりかん社版、下巻 「本宗」332頁 のゴチャゴチャした訂正は、筆写されていること からして、おそらくは、梅園その人の訂正。 上巻、天冊活部152頁の訂正も、おそらくは、梅園その人の訂正。訂正後のほうが出来が 良い。出来が良くても、訂正は巻末の注に回すしかない。 天冊は傍線と○で二重に消している。ただし、線が細いので読める。天冊活部には、この消 し方が多い。消し方にもそれぞれ特徴があり、その特徴も判別の材料となる。 天冊活部の訂正はあまり多くはない。
梅園がたとえば「所然」としているところを黄鶴が「所以然」に変えている場合、 自筆稿本と版下本で返り点が異なる。 前者はレ点が入るのみ。後者は、一二が入る。 これで判別ができる。 返り点まで変えている場合は、間違いなく黄鶴の改竄である。「以」を加えるこ とは、矢野弘が指摘したとおり、実語を虚語とすること、つまり、指示対象を持 つ語を、持たない語に変えることになる。 無意味であり、かつ混乱の元である。
自筆稿本のどこにも書かれていないが、写本939・梅園全集・岩波版の「玄語」には あるという、奇妙な文がときおり見られる。 版下本作成時の黄鶴の作文としか考えられない。 一八三五   理氣豈條理之正對哉。(豈:あに。反語の助字。どうして…しようか。)        (理氣、豈に條理の正對ならんや。理と気がどうして条理の正しい対であろうか。) 一九一九~二三 知理之所在。而循之者智也。(理の在る所を知りて、而して之をめぐらす者は智なり。)         譬之理猶燭也      (之を譬えるに、理はなお燭のごときなり。)                       智猶目也      (智はなお目のごときなり。)         燭照而目得視也。     (燭照らして、而して目 視るを得るなり。) そのうえで次の2行を抹消している。自筆本には、抹消の跡は無い。 助辞をほとんど片端から取り除く。文脈を変える。文を作り変える。こういうのは、 「校訂」とはいわない。改竄である。 何を考えてこんなことをしたのだろう? 梅園先生も、安永本脱稿時に写本(バックアップ)を遺しておくべきだった。 全体の写本(バックアップ)はおそらくは無いと考えたほうがよい。 部分的には遺されているが、それを寄せ集めるよりも、現在の復元作業のほうが、 効率がよい。寄せ集めて全体になるかどうかわからないし、結局、自筆元筆と 突き合せねばならないからだ。
検索機能の有効性  二三〇〇    天而星沫          沫を○で見せ消ちにした後、上に辰と書いている。                         右上に何かの文字を書いて粗雑に消している。辰                         沫の用例が小冊一三四九七にある。 星沫が、書き損じではないか、という疑いが頭をよぎりましたので、「沫」で全文検索を しましたら、 13497: G0248U-011 侌象なる者は辰沫にして東運は甚だ速きなり遅速留退す 沫 は、「水やつばなどの細かいしぶき」(岩波新漢語辞典)という意味ですから、 辰沫があるのなら星沫もあってよいだろうと思います。 ということは、陰象(陰は代用)として辰沫、        陽象(陽は代用)として星沫という対応がつきます。         文意からして「辰沫」は太陽系の惑星のことであることがわかります。 検索は、エディタの起動も含めて、30秒ですね・・・・
二行一対の記述形式は、黄鶴、弘は理解していたことがわかります。 写本製作者もおそらく理解していたでしょう。 その後、200年以上、忘れられていました。 当時としては、さほど特殊な書き方ではなかったのかもしれません。 ただ、白ゴマ、黒ゴマを、記述の対象性を指示するために使ったのは、聴いた ところでは、梅園だけのようです。
いい加減にしてくれ!! と叫びたくなる・・・ 梅園全集版「玄語」を電子文書化したもの(初期入力は梅園学会の浜田晃氏)を次のように編集していた。 つい先ほどまでこの編集だったし、三浦梅園資料館から刊行されている総ルビ版「玄語」もそうなっている。 ところが、2605:の文の後に、故。という語があり、それが○で見せ消ちにされていることがわかった。 そうなると、(1)の編集が、(2)のように変わってしまう。 (1) 2604: 各の立するを以て而して隔つ 2605: 一の剖するを以て而して通ず 2606: 天地は相い隔つ 2607: 造化は相い通ず 2608: 動植は相い隔つ 2609: 生育は有い依る (2) 2604:   各の立するを以て而して隔つ 2605-06: 一の剖するを以て而して通ず故に、天地は相い隔つ 2607:                    造化は相い通ず 2608:                    動植は相い隔つ 2609:                    生育は有い依る (1)では、2604から2609までが並列になっている。文として同格に扱われている。 (2)では、順接の接続詞「故」(=だから)があることによって、2606から2609までの文が下位 の文となる。文にも階層性があり、それを接続詞が示していることがあるのだ。「雖」を消すと 逆接の関係がわからなくなるが、消している場合がある。接続詞の基本は、 順接・逆接・並列・説明・転換・添加・選択 である。 黄鶴が消したと思われる、故、是故、以、是以、然、而などが、どのような機能を持っているのか を推定し、それから前後の文の関係を把握しなければならない。しかし、今日まで、このような作 業をした人はいない。大半が消し去られているのであるから、作業そのものができない。 (1)でも、内容をよく読めばそれはわかるかもしれない。しかし、棒組みの活字版では、それは 簡単には読み取れない。自筆影印版(ぺりかん社版)だとなおのこと読み取れない。三枝博音読み 下し版だと、読み取りはほとんど不可能である。 これまで「玄語」について何事かを書いてきた書物は、すべて間違っている。でたらめな基礎工事 の上に、まともな家が建つはずがない。
一見きれいな文だけど・・・ 2653:  各各剖析して、條理井然たり。 2654:  彼此交接して、運為変錯たり。 実は、 2653-54:  各各の剖析する所、條理井然たりと雖も、彼此の交接する所、運爲變錯を致す。 「雖も」を削っちゃいけませんよ、黄鶴先生・・・・。脈絡がデタラメになります。 黄鶴だと断定はできないという疑念が頭の片隅にある一方、梅園のものとしか思えないきっちりと した訂正を見ると、その訂正そのものが、実は「天冊・活部」は、安永四年本時点で完成してい たと物語っているように思えてくる。 そうなると「立部」はどうなのか、「小冊」はどうなのか。 黄鶴が訂正したために、未完成のように見えていただけで、梅園自身は完成させていたのではない だろうか? そういう疑問を否定できるだろうか?
【訂正前】  二七八二  故物。會偶則事於偶     故物。と事於を○で見せ消ち。(推黄鶴)  二七八三     會與則事於與     事於を○で見せ消ち。    (推黄鶴) <北林訳>  二七八二  だから諸物は、偶するものに会えば、偶との関係において出来事を為し、  二七八三         隣り合うものと会えば、隣り合うものとの関係において出来事を為す。 【訂正後】  二七八二  會偶則偶  二七八三  會與則與 <北林訳>  二七八二  偶するものに会えば、則ち偶し、  二七八三  隣り合うものと会えば、則ち隣り合う。 後続の文との関係を見れば、訂正前のほうが妥当である。
「天冊立部」鬼神-神 の超漢字版の復元が終わったところで、復元箇所は370に及んだ。 全体としては、1500箇所内外になると思われる。黄鶴は、父梅園の「玄語」をもとにして 自分の「玄語」を作ろうとしていたように思われる。我々が読んできたものは、黄鶴の著作と しての「玄語」であって、梅園の著作としての「玄語」ではない。
我々が読んできた「玄語」は、梅園が37年の歳月をかけて育てた「玄語」という巨木を、息子 黄鶴が徹底して枝打ちをしたものであった。確かに同じ樹ではあるが、その姿はまったく違う。 文体に関していえば、我々が読んできたのは、息子黄鶴のものであって、梅園のそれではない。 梅園は、しつこいほどに、是故、是以、故、而、などを使う人であった。そしてこれらの語は、 白ゴマと黒ゴマの二行一対の文を繋ぐ役割を持っていた。したがって、前にも書いたが、これら の用法に一定の規則がある可能性がある。黄鶴は、これらを頻用することを好まない人であった らしい。それで、三分の二以上は抹消している。 文章としては、格調が高くなったように見える。しかし、文の脈絡がわからなくなった。ことに 二行一対形式で書かれていることが忘れられた今日の研究者にとっては、これははなはだ迷惑な ことである。 詳細な意味解析という点から見れば、これらの語を抹消された「玄語」は、どこから手をつけれ ばいいのか分からないような意味不明の代物になっていると思われる。
岩波版・梅園全集版の次の記述は、一見正しいように見える。  四五六五  無涯于緯者無涯于經   (緯に涯り無き者は、經に涯り無し。)  四五六六  有涯于緯者有涯于經是以。(緯に涯り有る者は、經に涯り有り。) しかし、四五六六の「有涯于經」は、「無涯于經」を改竄したものである。もし「有涯于經」が 正しいのであれば、  四五七三 日月則自無前之前而追袞袞(日月は、則ち無前の前よりして、袞袞を追う。) とどう整合させるのであろうか? 日月は「緯に涯(かぎ)り有ある者」である。しかし「無前 の前よりして、袞袞を追う」のであるから、梅園は、緯(ここでは空間)に於いて有限のもので も、経(ここでは時間)に於いては無限の延長を持つと考えていたことがわかる。  一二五七  天地活物故不死(天地は活物、故に死なず。) の「不死」なども「經に涯り無し」に通じるであろうし、  三二三一 雖小而鱗比不斷(小と雖も、而も鱗比は斷たず。)  四五九二 雖其物倏忽而相繼者不斷(其の物、倏忽と雖も、而も相い繼ぐ者は斷たず。)    五一二四 小物者有窮體體相換引致之於無窮(小物は窮り有り、體體相い換る、引きて之を無窮に致す。) などは、生物が個体として短命ではあっても世代交代によって長大な年月にわたって存続し続ける ことを語っている。要するに、黄鶴は、父梅園の周到な思考が分かっていなかったのである。分か らなければ、余計な筆を加えなければよかったのである。
 四五九八 向將者。會去于既者。故 (將にせんとするに向う者は、既にするに去る者に會う。故に)   去を○で見せ消ちにして右に進と傍記しているが、版下本本文には去を採用している。迷うのなら 訂正すべきではない。  四五九九 没前後。而露會於今。(前後を没して、而して今に於いて會を露す。) 岩波版では、會を○で見せ消ちにして右に今と傍記し、今を○で見せ消ちにして右に會と傍記し、 今と會を入れ替え、而露今於會としている。 ともに黄鶴の改竄であるが、梅園に迷いがないのに対し、黄鶴は訂正に迷いがある。梅園全集発 刊以後、後世の研究者は迷うことなく黄鶴の迷いに追随したのである。ただ、黄鶴はまったくの 無理解から訂正したわけではないので、それなりに意味が通じたり、文意が変わらない場合もあ る。意味不明になった部分が難解さと映り、「玄語」に「黒い言葉の空間」という感想を抱かせ、 それをつづった書物に大佛次郎賞が与えられるという珍妙な功績をも生んだ。
 四八〇二  造者侌絪之痕活而爲焉  四八〇三  化者昜縕之痕縕運而變焉 梅園自筆は、上のように字数が揃っていない。黄鶴は、縕を抹消して下のように書き改めている。  四八〇二  造者侌絪之痕活而爲焉  四八〇三  化者昜縕之痕運而變焉 これは黄鶴が記述の対称性を理解しており、それを重視していたことの証拠にもなる。その後、 梅園全集が発刊される明治45年以降、記述の対称性は忘れられていたようである。私もきれい な対になっている梅園全集の(つまりは黄鶴改竄の)文をそのまま信頼していた。対を整えるこ とが目的なら、絪を縕のとなりに書いてもよい。 梅園自筆の文では、活而爲焉と運而變焉の主語がそれぞれ違うことになる。主語を{ }で括っ て追加して書くと、下のようになる。 {造者}活而爲焉 {縕}運而變焉 絪が活するはずはなく、化者が運するはずもない。だから縕を抹消したり、絪を追加したりして文 の対称性をかたちだけ整えたりしてはいけないのである。 ・・・思うに、これが校訂者としての三浦黄鶴の理解レベルである。 それでも、黄鶴は、記述の対称性を理解していた。昭和に入ってからの梅園研究では、そのことは 完全に忘れ去られていた。そのうえで、さまざまな学説が喧伝されてきたのである。
校訂者としての三浦黄鶴の理解レベルを窺い知るもうひとつの証拠がある。ぺりかん社版三浦梅園資料集 下巻587頁の付箋4がそれである。ここには、「本宗」の中の次の文が引用され、「此数句錯雑難解」 と書かれている。 (付箋4) +----------------------------------------+ | 精見天機麁露氣物雖没而袞袞之  | | 通。坱坱之處。成宇宙機既見動止之  | | 轉持形能成直圓之形理於是没成   | | 動靜之天地體能立氣物之天地性   | | 能活華液之侌昜於是露成體性     | | 之天地               | |          此数句錯雑難解   | |        天地篇第二紙表     | +----------------------------------------+ 「本宗」の該当箇所   四七〇    精見天機    四七一    麁露氣物   四七二    雖没而袞袞之通。   四七三        坱坱之處。成宇宙    四七四    機既見動止之轉持    四七五~七六 形能成直圓之形理於是没成動靜之天地   四七七    體能立氣物之天地    四七八~七九 性能活華液之侌昜於是露成體性之天地 この程度の文章が「錯雑難解」と映る理解水準で「玄語」を校訂してもらっては困るのだが、 「玄語」の訂正の中にはこのレベルのものが多数含まれている。次も黄鶴の理解水準を知る上 で良い資料である。 (付箋5) +----------------------------------------+ |  自天雖没至成宇宙十五字爲衍     | |                    | |  機既見動靜之轉持天能成通塞之   | |  宇宙於是没成機天之天地體既   | |  立氣物之天地性能活華液之侌    | |  昜於是露成體性之天地      | |                    | |    如是作文則得整正且与巻末之   | |    図合              | |      天地篇第二紙表       | +----------------------------------------+ 自天雖没至成宇宙十五字 とは、   四七二             雖没而袞袞之通。   四七三                 坱坱之處。成宇宙  以下を指すのである。ここは、梅園の訂正が主であり、それに黄鶴の訂正が混入していると 見られ、実に錯雑としている。こころみにぺりかん社版下巻321頁を見ると良い。ただ、 引き線から推測するに、「氣物」を「性體」に換え(氣→色→性と換えている)、この上に 「天」を加えたのは、おそらく黄鶴その人である。 (付箋4を整形--復元前の二行を加える--)   四七〇    精見天機    四七一    麁露性體     ( 自筆、氣物を見せ消ちにして、性體と傍記。)    ・・・・・・ 機既見動靜之轉持   ・・・・・・ 天能成通塞之宇宙於是没成機天之天地   ・・・・・・ 體既立氣物之天地   ・・・・・・ 性能活華液之侌昜於是露成體性之天地 (写本939、梅園全集、岩波版、該当箇所--同じく加える--)   四七〇    精見天機    四七一    麁露性體     ( 自筆、氣物を見せ消ちにして、性體と傍記。)    ・・・・・・ 機既見動止之轉持    ・・・・・・ 形能成直圓之形理於是没成動靜之天地   ・・・・・・ 體能立氣物之天地    ・・・・・・ 性能活華液之侌昜於是露成體性之天地 (復元版本文)   四七〇    精見天機   四七一    麁露氣物   四七四    機既見動止之轉持   四七五~七六 形能成直圓之形理於是没成動靜之天地   四七七    體能立氣物之天地   四七八~七九 性能活華液之侌昜於是露成體性之天地 結果として黄鶴の「作文」は、ひとつのアイデアの域にとどめられており、本文の改竄にまでは及 んでいない。しかし、黄鶴の文の校訂の手法が「是ノ如キ作文、則チ整正ヲ得テ、且ツ巻末ノ図ト 合ス」と本人が書いているように、図との整合性を高めるものであることが察せられる。これが今 日まで多大の混乱をもたらしてきたことは、図の中の「色」をことごとく「性」に改めたことから も推測できる。これについては、すでに公開したとおりである。 しかし梅園は、 一五五四一 是れ圖の大意、書に合する有る者なり。 と書いており、この前後に図と文の共通点・相違点を書いている。文は文法によって書かれ、図は 図法に従って描かれている。したがってそこに配置される語が一致するとは限らないのである。 やはり、我々が読んできた「玄語」は、三浦黄鶴の大々的な改竄版だったのである。
 五一二二    大物容小物     ここより五一九九行まで、安永四年本(ぺりかん社版                     上巻346~347頁)からの転記である。字は黄鶴                     のもの。梅園が筆写させたのであろう。字体は、ぺり                     かん社版下巻333~334を参照のこと。安永四年                     本の訂正が、天明浄本に反映されている例が見受けら                     れる。ということは、この部分の訂正が梅園のもので                     あるにせよ、黄鶴のものであるにせよ、梅園が意図し                     た訂正であり、六十代半ばの父梅園と、二十代前半の                     息子黄鶴のコラボレーションがあったことがわかる。                     その意味で、貴重な頁である。これは活字からは得ら                     れない情報である。この部分の訂正は朱である。朱に                     は親子共同という意味がある可能性もあるが、目下不                     明である。この情報は三浦梅園資料館にまで足を運ば                     ないと得られない。 安永四年本には、梅園その人の筆としか思えない方法で「是以」を見せ消ちにした跡がある。天明 浄本では、「故」を朱の□で見せ消ちにしている。接続詞の抹消が、梅園の意図ではなかったとい う明確な証拠はないし、抹消することによって、 「図は條理に整斉す」に対する「文は変化に錯綜す」という命題を満足させることにはなる。    ・・・おいそれと くれてはやらぬぞ この書物・・・ ということだろうか?? あるいは、表裏や見開きが表現手段だったように、見せ消ちもまた表現手段なのかもしれない。    ・・・それならば といてみせよう その書物・・・
 五三八五    方者所行之路也  この文は、もと安永四年本に、方者動之路也                     とあったものを動を見せ消ちにして所行と訂正し                     た文の転記である。これに対する五三七三行は、                      位者方之地也とあったものの方を所立に訂正                     している。したがって、正しくは、                      位者所立之地也                      方者所行之路也                     という対が作られねばならない。これは梅園、黄鶴、                     写本939の作者も見落とした転記ミスであるが、                     岩波版では補っている。明らかな転記ミスであるの                     で、本文を訂正した。
訂正全般に言えることだが、白ゴマ・黒ゴマの傍点による二行一対という記述の形式は、当然の前 提として守られている。白ゴマの文で二文字抹消すれば、黒ゴマの文でも二文字抹消している。形 だけ、二行一対に整えたために、文の脈絡を損ねた場合もある。「玄語」の校訂に携わった人たち が亡くなった後、この規則はすっかり忘れられてしまった。梅園全集や・岩波日本思想大系の「玄 語」は、傍点、返り点、送り仮名などを再現しているから、まだましである。三枝の『三浦梅園の 哲学』では、図も、傍点もすべて削り取られてしまった。そこから戦後60年を支配する<梅園哲 学-和製弁証法>学説が生み出された。三枝にとっては、「玄語」は弁証法を喧伝するための素材 でしかなかったのであろう。しかし、それはすべて砂上の楼閣であった。資料をないがしろにして 高踏的な解釈を陳述する者は、密かな笑いに包まれるだろう。 ただし、三枝の『三浦梅園の哲学』は、初期の研究としては、相当なレベルのもので、後世、彼を 凌ぐ研究者が現れなかったことの方が、問題としては大きいと言わざるを得ない。 矢野弘のような梅園門下の俊才を別とすれば、梅園の時間論を最初に正しく評価したのは、三枝博 音であったろう。『三浦梅園の哲学』昭和16年刊、116頁を見ると、故末木剛博氏が、時間現在 説とした解釈と全く同じ知見が見受けられる。 「梅園とヘエゲル」(梅園学会報15号所収論文)より引用する。 ----------------------------------------------- (五・一・一・二・一) このように梅園の時間空間論の特徴は「今中」(31) の概念にあるが、それを明示して言えば、 (1)彼の時間論は「時間現在説」とでも言うべきものであり、過去も未来も 常に現在の内にある、とする。 ----------------------------------------------- 『三浦梅園の哲学』116頁より引用する。 ----------------------------------------------- 梅園は「時は神(しん)を運する者なり。今(こん)見(あらわ)れて而して神遊ぶ。」(原漢文)と 言っている。「今」とは過去と未来との間にあるものではない。今のところに過去と未来があるのである。 「今なるものは過去を送っているものであって、未来を迎えているものである。」(今者送往迎来。) かくいえば、今とは過去と未来との単に接合点の如くであるが、今とは点のごときものではない。「時で あることが今(こん)を為す」(時則為今。)のである。今とはそういうものなのである。だから、すべ てが今なのである。過去と未来の接合のところにのみ今があるのではない。今が既に過ぎたところを人は 以前というように言って居り、今がまだそこに及んでいないところをこれから以後の如くに言っているが、 それは送るとか、迎えるとかいうことに捕らえられて言うのであって、そういう仕方を離れれば、すべて が「今」なのである。(今之既過、曰前、今之未及、曰後、除送迎之囿、則均今也。) ----------------------------------------------- つまり、三枝博音は、末木剛博氏と同等の時間論解釈のレベルに、独自で、半世紀も前に到達していたの である。(高橋正和氏も、この観点に到達しているが、両氏が三枝の『三浦梅園の哲学』を読んでいるの に対し、三枝には、先行する研究論文がなかった。この違いは大きいと言わざるを得ない。)
 六〇一〇1   ・・・復元・・・ 西轉得逆象而爲日           六〇一〇2   ・・・復元・・・ 東運爲順象而爲歳  六〇一〇3   ・・・復元・・・ 月與日同爲物於是  六〇一〇4   ・・・復元・・・ 象行東西順逆  六〇一〇5   ・・・復元・・・ 與月爲緩急         この上に、貼り紙をして、次のように清書している。いずれも梅園の筆であるから、         梅園の訂正の癖や、訂正の時の文字などを知るのに有益である。この貼り紙は、剥が         れ落ちており、現在資料館に収蔵されている「玄語」では見ることが出来ない。脱落         した貼り紙に書かれた文字を読むことが出来るという点でも、ぺりかん社刊行の「玄         語」は貴重である。またここから、この部分の貼り紙が、昭和四十三年から四十六年         にかけて制作された複写(初期の湿式コピーによる。作業は高橋正和氏が行い、丸善         書店から、限定二部ながら正式な手順を踏んで出版されている)の後に、剥落したも         のであることが分かる。もしこの貼り紙が見つからなければ、ぺりかん社版を参照す         るほかない。ぺりかん社版の補完作業をしたときの私の記録によると、これはデジタ         ル資料の30頁にあたる。剥落については当然、補完作業時に資料館に報告している         が、厳重な取り扱いが要求される膨大な稿本類の中からわずか一枚の附箋を探し出す         のが困難なのは当然のことで、未だに見つからないようである。偶然の発見を待つし         かない。)  六〇一一             日行逆月來而爲朔  六〇一二    全一二四上・一〇 日行送月去而爲望  六〇一三             月與日通行於天中  六〇一四    全一二四上・一一 東西順逆以分上下

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