三浦梅園資料館 ほか 各位様 宛メイル

*********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                            北林達也 (2009.01.31) ぺりかん社の『三浦梅園の思想』(昭和56年 1981年)の序説16頁に、 ------------------------------------------   更に厄介なひとつの疑問が、この改訂の過程を追求している内に浮かび上がってきた。   それは梅園没後、長子三浦黄鶴と晩年の弟子矢野弘が浄書本に手を加えた形跡がある   ことである。浄書本には黄鶴の質問に対する弘の返答が記され、弘と署名された付箋   が多くみられ、それに応じた改訂が認められるからである。浄書本にみられる改訂の、   どこまで梅園のものでどこからが黄鶴のものであるかの判別にも苦しむようなありさ   まである。ただでさえ、難解を以て鳴る『玄語』であるのに、底本と思われた「梅園   全集」所収の『玄語』の実態がこのようなものであるからには、梅園研究は全くのと   ころ零からの出発という過酷な作業を我々に要求することになる。  ----------------------------------------- たしかに「零からの出発」という過酷な作業でしたし、20年の歳月を費やしましたが、もうす ぐ終わります。 私が出した答えは、  1.文書構造(『玄語』の設計図)の解明と視覚化。  2.記述方法の解明、白点と黒点の傍点による、二行一対形式の視覚化。  3.文がブロックを形成して対になる記述法の視覚化。  4.傍点に即した読み(粲立読み)と返り点送り仮名に即した読み(混成読み)の読み分け。  5.記述の規則を明確化したことにより、梅園であれ、黄鶴であれ、矢野弘であれ、規則違反    は規則違反と判断できるようにした。  6.安永本は、仮に復元しても、それを以て底本とすることは出来ないことを明らかにした。    というのは、安永本の地冊露部から抜き取られた頁が、浄書本の地冊露部に使われている    のであるから、安永本というものが、独立して存在するわけではないからである。  7.抹消を採用せず、復元という手法を採ることによって、可能な限り梅園が最初に書いた『玄    語』を再現した。  8.全体の構成は、版下本と同じく、梅園が最後に残した冊から全八冊を構成した。  9.全部の行に通し行番号を振った。 10.これまで刊行されたすべての『玄語』(写本939を含む)と行番号とを対照できるように    した。 11.黄鶴版(既に資料館から刊行されている)と梅園自筆の対比が出来るようにした。 12.全集版『玄語』が藤井専随の編集版であることを明らかにした。 13.岩波版(全集版も同じ)が、黄鶴によると思われる数百にも上る接続詞の抹消の故に、研究    資料としては使い物にならないことを証明した。 14.『玄語』の文が、共通する語による「束ね」を行っている特殊な文であることを明らかにし     た。(いわゆるファイル圧縮の手法に似ています。)*注 15.束ねを解かないと意味の読み取りが出来ないか、極めて困難であることを明らかにした。 私は、高橋-五郎丸両氏が提出した稿本上の疑問に、自分なりの答えを出しましたし、それを 形にしてきました。 それは、電子文書化に取り組まれた浜田晃氏の作業と、自筆稿本の複写を作成した高橋正和氏と、 『玄語』の影印版を作成した五郎丸延氏の作業に立脚しています。 作成した資料は、図版を含め、A4版5000枚になります。読み下しはすべて総ルビです。 それが終わったら、「束ね」を解いた文からなる『玄語』の作成が必要になります。そこまで やって、初めて、解釈が出来ることになります。解釈に際しては、『玄語』を漢文という伝統的 文法から開放します。構文は、記号を使って書き換えることになります。この書き換えのアイデ アは、末木剛博氏の論文( 玄語の論理-その1-)から得たものです。 「玄語の論理-その2-」は、私が書きます。 ※ 「小冊」では、文の「束ね」は非常に少なくなっています。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                            北林達也 (2009.01.30) 分類に於いて、系統を重要視するのは、ユダヤ・キリスト教圏の学者の好みだし、 様態を重要視するのは、仏教や神道を知の歴史に持つ日本の学者、たとえば、 『風土 -人間学的考察-』を書いた和辻哲郎や、「棲み分け理論」の今西錦司や、 三浦梅園などがそうである。 梅園の『玄語』と西田の哲学が、場の重層的内在論になっていることは、末木剛 博氏によって指摘されているとおりである。 場の重層的内在が風土に特有の個とその集団を形成するというのは、和辻の理論 であるし、それが種を形成するというのは、今西の理論である。 結局、時間にではなく、空間(場)に立脚した理論であるという点で、これらの 思想は、共通している。 『玄語』は、それを極限まで拡張しているのである。およそこれ以上の拡張は不 可能というところまで、拡張しているのである。 ------------------------------------- 2・5・2 このように梅園も西田も共に場所的な内在論を唱える。そしてそ れは単純な内在論と違って、大宇宙のなかに小宇宙が入れ籠になって居るという 構造であり、前節で用いた用語で言えば「重層的内在論」である。「場所」とは 重層的内在論のことである。 -------------------------------------      西田幾太郎と三浦梅園 http://www.coara.or.jp/~baika/sueki3.html *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 進化論の一歩手前か? というお話です。 以下の梅園の問いに答えるとすれば、ひとつには「進化」というものが挙げられます。 西欧の進化論は、18世紀以降に発達し、現代の進化論は、ダーウィン(1858年に発表)に始まり ますから、ここで梅園に進化という答えを求めることは無理ですが、疑問は持っていたわけです。 13362: 此の生も亦た知る可からざるなり》蓋し ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 13363: G0244U-017 此の生為る。已に其の寓を有す〉 13364:       亦た其の知を智にす》 13365: 其の有は》則ち実に其の有なり〉 13366: G0244U-018 其の智は》則ち実に其の智なり》 13367:        知らず。素より有して〉而して今も亦た之を有すか〉           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 13368: G0244L-001     素より知りて》而して今も亦た之を知るか》               ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 13369: 今 始めて其の寓を得る〉以て之を有すか〉 13370: G0244L-002 今 始めて其の智を得る》以て之を知るか》 でも、「人は猿から進化した」と言われたら、梅園先生は、びっくりしたでしょうねぇ・・・ 進化という概念を知るには、まだ時代が早すぎたようです。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 「岐」を[止支]に統一する根拠となる、梅園自身の訂正があります。 ぺりかん社版『玄語』小冊141頁、後ろから2行目の「岐」を[止支]に訂正しています。 デジタル資料(13/67)では、朱筆の訂正で、この冊の朱筆は間違いなく梅園の筆です。 小冊物部は安永本ですから、浄書期に、小冊も推敲しており、文字の訂正を行っていたこ とが分かります。 これからして、安永本では一貫して「岐」を使っていた梅園が、「図有双岐」のように 明確に二分岐を意味する場合をのぞして、すべてを[止支]に統一するという意図を、明 確に持っていたことが分かります。 つまり 二分木(binary tree)に「岐」、 多分木(multiway tree)に[止支] を使うというのが、梅園の最終的な意図です。 「小冊物部」の「混成読み」の作成が終われば、20年をかけた電子資料の整備が、 一応完成することになります。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 漢文の訓読はそもそも圧縮ファイルの展開ではなかったか、というお話です。  物有性〉性具物〉性與物混成〉而無罅縫〉故其一也全〉  性偶体》物偶気》物與性粲立》而有條理》故其二也偏》 を訓読して、  物は性を有し、性は物を具す。性は物と混成して、而して罅縫無し。故に其の一や全なり。  性は体に偶し、物は気に偶す。物は性と粲立して、而して條理有り。故に其の二や偏なり。   とするのは、そもそも外国語である漢文の、日本語への展開ではなかったかと思えます。 逆に、頭の中で考えた日本語を漢文に書くのは、日本語から漢文への圧縮でなかったかと思います。 およそ1000年あまり、歴史上の日本の学者たちは、頭の中で展開と圧縮を繰り返していた と考えられます。それが、日本人の情報処理能力を高めたのではないか。 『玄語』はそれを極限にまで利用した書物であると言えると思います。 現代でも、ひとつの機種に複数の機能を盛り込む技術(携帯電話がよい例です)などに、そ ういう知的伝統が反映されているのかも知れません。 *********************************************************************************** 前のメールの補足です。 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 > <例4> > 1312: G0046L-014 神本は〉則ち然るに幹運す〉 > 1313: 天神は》則ち然るに為成す》 > > 試しに展開して、単位文に展開してみてください。こういう例が山ほどあります。 こうなります。 1312-1: G0046L-014 神は〉則ち然るに運す〉 1312-2: G0046L-014 本は〉則ち然るに幹す〉 1313-1: 天は》則ち然るに為す》 1313-2: 天は》則ち然るに成す》 「則」と「然」のそれぞれ2文字ずつの重複が避けられていますから、このふたつの語で 束ねた文は、合計4文字節約(圧縮)されていることになります。 意味の読み取りは、単位文から行わないと誤読します。 ------------------------------------------    自然を探求するには先人の言葉でなく、直接に自然に向かわねばならぬ、と主張する梅  園の哲学の立場を追いつめてゆくと、それは結局、条理の言葉、『玄語』の「文法」に帰  着する。のみならず、わたしの考えでは、梅園の理論のなかでももっとも精細を放ってい  るもののひとつが、この言語や記号や表現に触れた部分なのだ。この逆説ほど、梅園の哲  学とはなにかを雄弁に物語るものはないだろう。『玄語』が外延的に定義された概念群と  厳密に二分法的な思考法とによって構成された、人工言語体系を駆使しているという意味  で、梅園の哲学は分析哲学になぞらえることができるだろう。 ------------------------------------------              日本の名著『三浦梅園』山田慶児(中央公論)160頁 こういう『玄語』の語法・文法を知らずに書いていたんですね。山田慶児先生は・・・・ ------------------------------------------   これほど透明な世界の構造を、わたしたちはほかに求めることはできまい。だが、ふた  たび裏返していえば、それは第四に、ある種の貧困さを意味する。梅園の構築した世界像  は痩せている、とわたしは思う。たしかに、シンメトリーの静的な形式美には満ちみちて  いるものの、対称性を破るところから生まれる、動的な、偶然的な、不安定な美がない。  その世界は変化と多様性のもつ豊かさに欠けている。 ------------------------------------------ そりゃ、圧縮ファイルをそのまま読んだら、訳が分かりませんよ。三浦梅園の頭脳は、山田先生 の想像を超えているんですよ。天才と秀才の差です。それを簡単にけなしちゃいけませんよ。 分かっていないことを分かったように書いたら、後世に恥をさらすだけです。歴史上の天才には 桁外れの人がいると言うことを忘れてはいけませんね。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 「混成読み」と「粲立読み」の2種類の読み方を一冊の本に書き込んでいるということからし ても、共通する語で文を束ねていることからしても、『玄語』は一種の圧縮ファイルに成って います。これは私が初めて明らかにしたものです。これまでは圧縮ファイルをそのまま読んで 意味を読み取ろうとしていたのですから、分かるはずがありません。 梅園自身が束ねた文の例です。束ねる前の文を書いておきます。束ね=語の節約=圧縮です。 <例1> 412:       為成は則ち天神なり〉 413:       気物は則ち天地なり》 412-1:      為は則ち神なり〉 412-2:      成は則ち天なり〉 これを共通する語で括ると、412:になります。結局、条理の文である 412: は、 412(1+2): であることになります。文を構成するもっとも単純な文を単位文として、 一度、すべての文を単位文に展開する必要があります。 413:       気物は則ち天地なり》 413-1:      気は則ち天なり》 413-2:      物は則ち地なり》 これを共通する語で括ると、413:になります。413:=413(1+2): おなじ意味ですが、文字の数(漢字の数)が、413:は5個であるのに対し、413(1+2): は、6個となります。一語ですが、圧縮できているわけです。412:と413:では、2語 圧縮できています。 <例2> 651: G0034U-001 天神は》変動を以て活す》 652:          定常を以て成る》 これは、  651-1: 神は》変動を以て活す》 652-2: 天は》定常を以て成る》 の主語である「天」と「神」をつないで主語にした文です。こういう文は、不親切と言うよ り、後世に混乱の種を蒔く文です。梅園先生も、読者の理解を求めるのであれば、こういう 錯綜した作文はしない方が良かったと思われます。圧縮も出来ていません。 「文は変化に錯綜す」とは書いていますが、あまり錯綜させない方が良かったと思います。 これを「天神は変動を以て活し、定常を以て成る」と、これまでの研究者は読んできたので すから、意味が分かるはずがありません。漢文が読めるからと言って理解できる文ではあり ません。 <例3> 1229: 有開は則ち天神の徳なり〉 1229-1 有は則ち天の徳なり〉 1229-2 開は則ち神の徳なり〉 語数は、 1229:が6個、 1229(1+2):が8個ですから、2語圧縮できています。 1230: G0045L-012 為成は則ち天神の道なり》 1230-1: 為は則ち神の道なり》 1230-2: 成は則ち天の道なり》 同じく2語圧縮できています。合計4語の圧縮が出来ました。 <例4> 1312: G0046L-014 神本は〉則ち然るに幹運す〉 1313: 天神は》則ち然るに為成す》 試しに展開して、単位文に展開してみてください。こういう例が山ほどあります。 山ほどありますが、すべて単位文に展開しなければ成りません。単位文に展開して、 その字数を『玄語』のもとの文と比較すると、『玄語』の圧縮率が分かります。 資料作成が終わったら、こういう作業が待っているわけです。 単位語(条理語)、単位文(条理文)、条理図 の関係が明らかになって、初めて 『玄語』が読めたことになります。 私は、こういう作業を通じて、『玄語』の<解析的解読>を確立したいと思っています。 有意味な文であれば、解析的解読に耐えられます。どんなに長い文でも、結局、 単位文に解体されます。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 「自使然」と文の束ねと展開について、というちょっと硬いお話です。 粲立読み(条理整斉読み)、混成読み(変化錯綜読み)のほかに、「束ね読み」と「展開読み」 があります。(書いた梅園からすれば「束ね書き」と「展開書き」ですが・・・) これは、ファイルの圧縮と展開の一種と言えば言えるもので、『玄語』を難解にしている要因 の一つです。 良く誤解される用語に「自使然」(じしぜん)があります。 これは、「自然」(じぜん。じねん でも しぜん でもありません)と「使然」(しぜん。 しねん ではありません)を共通する「然」という語で、束ねた語です。 自然   \     → 自使然     / 使然 となるわけで、(B+C)A=BA+CA 展開されるのと同じで、 自使然 =(自+使)然 = 自然+使然 = 自(おのず)から然る+然(しか)ら使める となります。 +に該当する語は、「而」が当てられています。これは、初期稿本の「垂綸子」(すいりんし。 糸を垂れる人=釣り人のこと。天地に糸を垂れている梅園自身のこと)から使われていたと記 憶しています。「而」は、「かつ」を意味するので、 自然而使然 は、自(おのず)から然る、かつ、然ら使める となります。 非常に論理的です。検索文例をひとつあげます。 1249:      若以自然為本然〉則孰使之然〉 1250: G0046U-002 若以使然為本然》則奚容自然》     (注:この二文は、共通する語で束ねると矛盾しますので束ねられません。) 1249: 若し自然を以て本然と為さば〉則ち孰(いずれ)か之を然ら使めん〉  1250: G0046U-002 若し使然を以て本然と為さば》則ち奚(いずく)んぞ自然を容れん》 <意訳> 1249: もし自から然るということを本来の在り方とすれば、何がこれに作用を及ぼすのであろうか。 1250: もし然ら使めるということを本来の在り方とすれば、則ちどこに自ら然るということを容れ      るのであろうか。 自然(じぜん)=自動詞的作用(天的作用。個体に対して絶対的に働く自然の作用。たとえば花が花で                あること、山が山であること、人が人であること、天体の軌道が定まっ                ていること、冬は寒く、夏は暑いことなど。) 使然(しぜん)=他動詞的作用(神的作用。個体が他の個体に及ぼす作用。川の流れが石を削り、石が                川の流れを変えたりする相互作用。子供が生まれることによって、初                めて親が生まれる、など・・・) 自然も使然も、ともに本来の在り方です。どちらかを本来の在り方とすることは出来ません。 たとえば、昨日の私は、今日の私であり、明日の私である、というのは、「自然」の作用です。 私の意志とは関係ありません。これは「天」の作用です。 私は、昨日、今日、明日といろいろな働きかけを他の人や、他のものに対して行うでしょう。 これは、「使然」です。むろん、私自身も、いろいろな働きかけを受けています。 たとえば、電話が鳴ります。受話器を取って応対します。これは、自ずから然るところの私が、 然らしめられているのであるし、「では、?時にお出でください」と言って、相手がそれを 了承すれば、然らしめているわけです。これは、それぞれの「神」(しん)の作用です。 「自ずから然る」と「然ら使める」は、不即不離です。これを「自然而使然」(じぜんにしてしぜん) といい、これを縮めて「自使然」(じしぜん。自と使の然)と言います。 「自然」と「使然」は、「相反相依」(相い反し相い依る)の関係にあります。 自然(じぜん)=自動詞的作用、使然(しぜん)=他動詞的作用とする解釈を裏付ける文例は、 たとえば、 4835: G0104L-011 天徳は則ち自然〉其の道は則ち成〉天態は則ち常〉天体は則ち立なり〉 4836: G0104L-012 神徳は則ち使然》神の道は則ち為》神態は則ち変》神体は則ち活なり》 など、多数あります。(意訳は末尾の検索文例の前にあります。) もしこれを束ねて、 4835+ 4836: 天神の徳は則ち自使然。其の道は則ち為成なり。天神の態は則ち常変。天神の体は則ち活立なり。 としても意味は変わりません。『玄語』の中には、こういう文が多数あり、展開せずに意味を 読み取ることは、非常に困難です。さらにこれを書き換えて、 4835': 天神。其の徳は則ち自使〉其の道は則ち為成なり〉 4836':    其の態は則ち常変》其の体は則ち活立なり》 と書き換えても、意味は変わりません。こういうたぐいの文が『玄語』にはたくさんあります。 『玄語』において、こういう語や文の束ねや展開が可能なのは、もともと一定の規則があるか らであり、それは、漢文法という見かけの文法よりも重要なものです。 なぜなら、それは『玄語』における、三浦梅園自身の思考の規則であるからです。 --------------------------------------------- <意訳> 4835: 天の能力は自から然ることである〉その道は成ることである〉天の様態は定常であり〉天の体は定立である〉 4836: 神の能力は然ら使めることである》神の道は為すことである》神の様態は変化であり》神の体は活動である》               (道と体は、適当な訳語が思い当たりません。) <自然による全集版の全検索文例> 643:       静なる者は質にして自然たり》故に 1223: 有なる者の貌は〉則ち自然〉其の状は則ち跡を成す〉 1249: 若し自然を以て本然と為さば〉則ち孰(いずれ)か之を然ら使めん〉  1250: G0046U-002 若し使然を以て本然と為さば》則ち奚(いずく)んぞ自然を容れん》 1305: 天徳は自然〉而して其の道や成〉 1600: 徳は。是の自然の天を有す〉 1982:   貌は露して而して其の自然なる者 察す可し〉 2011:   貌は自然に成す》 2117: 天は自然に成し〉 4474: G0099L-018 自然なる者は》天の形貌なり》神を収し跡を成す》 4835: G0104L-011 天徳は則ち自然〉其の道は則ち成〉天態は則ち常〉天体は則ち立なり〉 5712: G0119L-009 人生は天の自然に及ばず。 7018: 転行は一斉に推去す〉下緩上急は〉之を自然に於て得る〉 10199: 是れ天成の勢の自然なり》 10568: G0202L-001 天は則ち自然なり〉不Iなり〉成なり〉常なり〉 11189: G0211U-010 好悪なる者は〉性の自然なり〉 14177: G0260U-006 自然にして我れに有するは〉則ち性なり〉 14179: G0260U-008 分して之を言えば》情慾の感応》自然に於て発するは》則ち性なり》 14181: G0260U-010 無意は〉則ち精霊自然にして〉 而して感応然ら使む〉 14182: 有意は》則ち感応自然に発して》而して知運然ら使む》 14319: 化すれば則ち温は去り冷は生す〉以て質の自然なるを観る〉 15169: G0275L-005 保養は之を自然に任す》 <使然による全集版の全検索文例> 642: G0033L-014 動なる者は気にして使然たり〉 1250: G0046U-002 若し使然を以て本然と為さば》則ち奚んぞ自然を容れん》   (奚んぞ。いずくんぞ) 1306: G0046L-011 神徳は使然》而して其の道や為》故に 1601: 彼の使然の神を用す》 2010:   状は使然に為す〉 4473: G0099L-017 使然なる者は〉神の精霊なり〉機に入り機を出ず〉 4836: G0104L-012 神徳は則ち使然》神の道は則ち為》神態は則ち変》神体は則ち活なり》是を以て。 7019: G0141U-002 運行は節節に分推す》上緩下急は》之を使然に於て得る》 10196: 是れ神為の力の使然なり〉 10569: G0202L-002 神は則ち使然なり》不測なり》為なり》変なり》故に 11190: 思弁なる者は》心の使然なり》是を以て。 14320: G0262U-007 活すれば則ち冷は去り温は醸す》以て気の使然なるに和す》 少し高度な検索機能を持ったエディタでは、マウスのクリックだけで、検索文例から前後の文を 見ることが出来ます。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 小冊人部 爲技(いぎ) より --------------------------------------- 同じく欲する者は善なり。獨り欲する者は惡なり。同じく思う者は正し。獨り思う者 は邪なり。故に、衆の同くする所を修むるは君子なり。己の獨りする所に荒(すさ) むは小人なり。己の獨りする所を舍てて、衆の同くする所に從うは勤なり。衆の同じ くする所を舎てて、己の獨りする所に從うは放なり。 --------------------------------------- 11270: G0212U-015  同欲者善〉独欲者悪〉 11271:        同思者正》独思者邪》故 11272: G0212U-016  修衆之所同〉君子也〉 11273:        荒己之所独》小人也》 11274: G0212U-017  舍己之所独〉従衆之所同者〉勤也〉 11275: G0212U-018  舎衆之所同》従己之所独者》放也》                 (検索用原文-黄鶴版) こういう人としてのモラルをきちんと教育しなかったところに、こんにちの日本の社会 状況ができあがっていると言えるようです。 誰もが、獨り欲し、獨り思い、獨りする所に荒み、獨りする所に從っているようです。 秋葉原の無差別殺人事件なんて、携帯メールで、反応がなかったから、誰も、止めてく れなかったから、というのが、犯行に至る経緯としてあるようですが、結局、 獨り欲し、獨り思い、獨りする所に荒み、獨りする所に從った、その結果なんですよね。 「自分さえ良ければいい・・・」、こう思う人間が、千人も万人も居ると、中には、極 端に孤立感を深め、そこから暴発する人、あるいは、自殺する人などが出てきます。先 進国の現代の犯罪や自殺は、おおむね、そういう傾向を持っています。 個人であれ、国家であれ、そういう傾向を持っています。 アメリカの孤立主義なんてものも、そういうものです。中立主義とは異なっています。 「個」とは、何であるか、「衆」とは、何であるか、そういうことを考えずに、ただ、 「個」の権利の最大限の擁護を善としてきた今日の日本の民主主義というものは、根本 のところで間違っているとしか言えません。 「小冊」では、一転して人間について考えさせられます。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 高橋正和氏の三枝批判にまつわる問題点、その他です。 ぺりかん社の『三浦梅園の思想』三〇代の頭の切れる頃の論文が大半ですから、非常に 切れ味がよいのですが、 1.書誌学的問題と思想評価を分離していない。 2.条理を弁証法といった人たちが『玄語』を良く読まずにそう言ったのと同じように、   条理は弁証法でないと言った高橋正和氏は弁証法をよく知らずに罵倒している。 2-1.その罵倒の最大の根拠は、三枝の引用の間違いにある。記憶違いだったのかも     知れない。三枝が引用した文は、そもそも最終稿本の『玄語』には存在しない。     しかし、途中稿本、あるいは、他の稿本に在ったかも知れない。だとしても、     その典拠を『玄語』と明記している以上、この点は、三枝の間違いである。 3.論述の根拠が間違っているとしても、論述そのものは、それと分離して論じなけれ   ばならない。    3-1.つまり、高橋氏は「書誌学的にまちがっているから、思想の評価としても間違っ     ている」という短絡的な判断をしている。 4.氏の批判には、思想の評価に欠かせない時代背景の考察が、まったくない。 5.条理-弁証法説は、哲学の世界で最大級のヘーゲルに、無名の日本の思想家三浦梅   園を同等・同格の思想家として評価するという意図があり、当時としてはこれ以上   は考えられない処遇であった。 5-1.末木剛博氏は、「梅園-ウイン学団」「梅園-西田」「梅園-ヘーゲル」とい     う三つの対比を行い、それぞれについて、共通点と相違点を述べている。これ     も最高の処遇である。 6.三枝の研究の中には、高橋正和氏が継承した、あるいは、解釈が共通する部分もあ   るが、批判の意欲が強すぎて、それらにまったく言及していない。 7.高橋氏の三枝批判は、三枝個人に向けられてもいるが、一方、三枝に追従した戦後   の研究者たちにも向けられている。戦後の研究者は、三枝の水準を超えていないし、   また、三枝の書いたものを良く読んでもいない。 7-1.『玄語』を読まずに三枝の『三浦梅園の哲学』を読んだだけとしか思われない     論文が多すぎる。そもそも英語、ドイツ語、ロシア語は読めるが、漢文を読め     ないという人が多かった。読んでも難解すぎて簡単には分からない。この点、     三枝は難解な『玄語』をかなり読みこなしている。漢学の素養の水準が違うの     である。 8.高橋氏の三枝批判に、きちんと学問的に反論できる人は、残念ながら一人もいなかっ   た。 9.脈絡に沿った解釈という点では、おそらく氏に追随できる人は出てこないと思われる   が、氏は、二行一対の記述法、文がブロックを形成して対を為す記述法、対称型の読   みと線的な読みの二種類の読み方があること、厳密な階層構造を持っていることなど   の、『玄語』の構造的な側面に関しては、まったく知見を持っていなかった。 11.末木剛博氏に依れば「『玄語』の思想は、弁証法と言えなくもないが、むしろ、    「相反相依の原理」と言った方がよい」ということである。(北林宛私信)    (相反相依 そうはんそうえ。相い反し相い依る。)  *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 梅園における人間の面目とは何であったか、というお話です。 「小冊人部」になると、こういう記述が多くなります。 10122~10151の読みです。 原文は省略しますが、この文を読んで、昨今のニュースを聴いてみてください。  戯調(ぎちょう)すれば則ち己れに誇り、  抗衡(こうこう)すれば則ち他を察せず。  爭えば則ち競い、妬(ねた)めば則ち忌(い)む。  之を内にすれば則ち護(まも)り、之を外にすれば則ち訐(そし)る。  守禦(しゅぎょ)の間、聲主は參差す。此の故に、  名を正して實を正さざるは、正聲を以て人を欺くなり。  實を抂げて名を直(ただ)すは、直聲を以て自から売るなり。  實を務(つと)めずして名を張り、虚聲を以て天を欺(あざむ)くなり。   實を有して名を惡(にく)む。實聲を以て人を尤むるなり。  世に未だ主を知らずして謾(いつわ)りに之を呼ぶ者有り。  主に遇いて未だ名を得ざる者有り。  同主にして異聲なる者有り。  同聲にして異主なる者有り。  是を以て、激言は實を過ぎ、[言委]言(ずいげん)は實を遷(うつ)し、  暴言は實を傷つけ、佞(ねい)言は實を溢し、惑言は實を失し、盗言は實を偸(ちゅう)す。  淫する者は其の言を私し、窮する者は其の言を遁れ、忌む者は其の言を沮(はば)み、  畏る者は其の言を縮む。  毀譽褒貶(きよほうへん)は聲なり。善惡美醜は主なり。  主は能く聲を爲すと雖も、聲も亦た能く主を移す。  聲主稱(かな)えば則ち可なり。稱わざれば則ち冤憤忿怒(えんぷんふんど)、誤謬過失、此に由りて興る。  (卑俗な話しで申し訳ないですが、定額給付金なんてのは「稱わざれば則ち冤憤忿怒、誤謬過失、此に由りて興る」   の典型みたいな話しですね。) *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 地冊露部まで、終了しました。「例旨」は終わっていますので、残るは、小冊のみです。 ぺりかん版 569~572頁まで、梅園以外の筆です。黄鶴か、次男玄亀か、いまは 分かりません。513-514頁の筆と同じです。 おそらくこの人の字で書かれた頁が、安永本にもありますから、綴じ直ししているんですね。 結局、573頁の追記や文の並びの変更は、そのまま採用しました。これを追記であるから 採用しないとしても、そのまえの他筆の頁は手が付けられないわけですから、復元の原則を 貫くのも無意味であるような気がします。 あまり資料作成に拘泥して時間を費やしすぎるのも考え物です。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 戦前の梅園研究と、梅園は顕微鏡を見ていた、というお話です。 「帰山録」に  # 顕微鏡にてうかがふに人の髪はひらみ有り獣毛はまるし小児の紙は中一條すく。                              (ひらみ。平み) という一説がありますから、梅園自身が顕微鏡をのぞいていたことがわかります。 望遠鏡についても、覗いたことがないはずはありません。ただ、当時最先端の こういう道具を使っての自然観察には、あまり興味を示していません。 この一節は、大日本思想全集第八巻 佐藤信淵 三浦梅園集(昭和八年)の「帰山録」で見 つけました。 「価原」「敢語」「玄語・本宗」の翻字、口語訳も為されています。 『多賀墨卿君にこたふる書』につづく「再答多賀墨卿」「三答多賀墨卿」も、三枝博音によっ て翻刻されています。(『梅園哲学入門』所収) 戦前の研究の方が、質・量ともに優れています。 戦後の梅園研究の質が問われます。読んでみると分かります。 「玄語・本宗」の翻字、口語訳は、高橋正和氏の筑摩書房の仕事とスタイルは同じです。 高橋正和氏の方が、条理語の理解の正確さにおいて勝っていますが、スタイルは同じで す。 大学での、戦後の梅園研究は、いったい何だったのでしょうか??  せめて大学では、先行研究の調査くらいしないとね。図書費もらっているでしょう? 三浦梅園の研究は、京都大学と東京大学で行われていたわけですが、山田慶児さんと 島田虔次さんの仕事は、このHPで指摘したとおりの不出来なものだし、長らく東京 大学に事務局を置いていた梅園学会でも、戦前の梅園研究の調査というものは、行わ れていない。 それぞれ独自に行った研究が、戦前のものより優れているのならともかく、劣ってい るのです。 大学がこの有り様ではどうにもなりません。図書そのものは、大学図書館にあるわけ ですから、怠慢と言われても仕方ありません。 戦前と決別したところから出発したのが戦後であったとしても、学問や文化は継承し ないとね。 それが出来ていない。何やってんだか・・・。 呆れた・・・・・ *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 「鬱は其の縫に由りて発す」とは、というお話です。 いま「混成読み」を編集しているところに次のような文があります。 9257: G0181L-001 大物の火を発す。小物と同じからざる有り。夫れ 9258:  大物なる者は体を攸遠に於て持す〉 9259: G0181L-002 小物なる者は物を前後に於て換す》 9260: 体を攸遠に於て持する者は〉?昜の力を抗す〉故に 9261: G0181L-003 発する者は収不断の中に於て発す〉 9262: G0181L-004 鬱は其の縫に由りて発す〉 ここは、「体を攸遠に於て持す」ですから、天文学的規模での記述です。簡単に意訳しますと 9257: G0181L-001 恒星が火を発するのは、生物とは異なるところがある。そもそも 9258:  恒星はその空間的存在を攸遠の長きに於て持続するものである。 9259: G0181L-002 生物はその空間的存在を世代の交代に於て換えるものである。 9260: 空間的存在を攸遠の長きに於て持続するものは、?昜の力を拮抗させる。だから、 9261: G0181L-003 発出する者は不断の収束において発出するのである。 9262: G0181L-004 閉じ込められたものは、それが縫い合わされることによって発出する。          (「縫」が、縫合なのか縫目なのか分かりませんが、いまは「縫合」と解釈します。) 「鬱」は、こもる。ふさぐ。ふさがる。煙・蒸気・ある気分などがいっぱいにこもる。また、そのさま。 であり、雲などは、蒸気の鬱した形態のひとつです。 地球の「持」の領域も、「収不断の中」(今で言えば重力圏)であるわけです。ですから、たとえば太陽 が、光と熱を発散してなおその形を変えない(膨らまない)ためには、太陽が「収不断の中」にあらねば ならないはずです。その「収不断の中」における「昜気」(陽の気)の「縫」(収不断の中における昜気 が結び合うことと解釈します)が、光と熱を発散してやまないのだと、梅園は考えた可能性があります。 むろん、核融合のようなメカニズムは知るはずがありませんが、この程度までは考えたのではないかと 推測されます。おそらく、浅田剛立や、ニュートンのような人たちも、似たような疑問は持ったはずです。 アインシュタイン以前の人が、なぜ太陽が燃え尽きないのかを疑問に思わなかったというのは、返って 不自然です。 ニュートンが、後半生を錬金術に費やした理由もそのあたりにあるのかも知れません。 つまり、集められたものが、融合することによって、光や熱を作り出す(「鬱は其の縫に由りて発す」) ことを研究していたのかも知れません。数理的なメカニズムを超えた創造の源を探索していたのかも知 れません。(ご存じの方はご連絡ください。) その後に続く文は、生物に関するものです。 9263: 物を前後に於て換える者は》収絶し発尽くす》故に 9264: G0181L-005 発する者は収不断の処に於て発す》 9265: 鬱発は体を食して尽くす》 意訳しておきます。 9263: 空間的存在を世代の前後に於て交換するものは、収めることに絶え、発することにも尽きてしまう。だから、 9264: G0181L-005 発散するものは、絶え間なく収める物体(身体)に於いて発散する。 9265: 集められ、発散するものは、その空間的存在(身体)を使い果たして終わる。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 以前、「捨てるべき文か?」で紹介した記述です。 > 4703-04 火は木を以て薪(たきぎ)と爲す 木は盡きざれば、則ち火も亦た盡きず 地に在る者の生化なり。 > 4705-06 日は影を以て薪(たきぎ)と爲す 影は盡きざれば、則ち日も亦た盡きず 天に在る者の生化なり。 > > この2行は、こんにちの科学的知識に照らし合わせると、様態として類比できるかどうか、疑問です。 > 火は、発熱・発光の原因物質が薪であるとは言えますが、宇宙の暗黒が太陽の発光・発熱の原因物質で > あるとは言えないでしょうから。 > > ただし、梅園は一筋縄ではいかないから、断定は禁物です。 やはり一筋縄ではいかないな~、と思います。 太陽内部では、陽子-陽子連鎖反応が起きていると考えられていますが、それが起きている場は、空間 ですから、光っているわけではありません。陽子が衝突するがエネルギーを放出しているにしても、 それが起きる場としての空間がなければなりません。その空間には光は無いわけです。 薪は、火が「燃える場所」ですから、  4703-04 火は木を以て燃える場所と爲す(以下略)  4705-06 日は影を以て燃える場所と爲す(以下略) と書き直せば、間違いではありません。「日は影を以て薪と爲す」は、比喩的表現です。もし、  (4703-04) 火は木を以て地と爲す(以下略)  (4705-06) 日は影を以て地と爲す(以下略) と書いていてくれていれば、少しわかりやすかったかなと思いますが、わかりやすいと素通りして しまいますね。梅園は、素通りしていないわけです。だから敢えて「薪」(たきぎ。まき)と書く。 8579: G0170U-007 地結は融して液を為す》(地が熱で溶けたものが液(水と大気)であるということでしょう。) 8580: 天鬱は発して華を為す》(なかなかナゾな文です・・・) 9028: 月は水を体すれば〉則ち 9029: G0178U-003  諸辰の景中に在る者は〉皆な水を体するなり〉            (この「水」は何のことでしょう? ナゾですねぇ・・・) 1月4日のメール「西欧の没落と三浦梅園」に引用した三枝博音の序論を思い起こさねばなりません。 -----------------------------------------------------------------------------------------                     更に或る人々は云う、『玄語』のフォルマリスムスに  は堪えることができる、しかし、自然科学的に粗硬な且つ旧い知識に拠ってなされる類比の追求  には堪えることができない、と。この批評も又土砂を見て鉱石を見ない類であるといわねばなら  ない。『玄語』は今日の自然科学の試みる分類が一義決定的なものでないことを反省せしめるの  みでなく、自然に対する『玄語』の素朴な洞察の中に、やがて将来の科学者が取り上げるであろ  う示唆の貴重なるものを、私たちに示すのである。                     ----------------------------------------------------------------------------------------- 三枝博音の洞察力もたいしたものです。凄い人です。 三枝博音(さいぐさ ひろと、1892年5月20日 - 1963年11月9日(明治25-昭和38)) 『三浦梅園の哲学』は昭和13~16年にかけて書かれたようです。 出版年は、昭和16(1941)年です。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 小さなガラス玉の中の生態系と定常化定数のお話の続きです。ちょっと長くなります。 三浦梅園資料館 オープン記念行事での、私の講演 【電脳梅園学-インターネットの中の三浦梅園】 http://www.coara.or.jp/~baika/kouen01.html で、生態系保存への応用を、すでに発表しております。むろん、webにも載せております。 反響は、ありませんでした。揶揄した人は居ましたが・・・・ 火星移住計画は、どう考えても実現することはありえない計画です。仮想計画だと思っています。 研究者は、本気で考えているでしょうが、実現は到底不可能です。 ただ、火星を鏡として地球環境を映すことによって、地球生態系をバーチャルに浮かび上がらせ ることができるわけです。つまり「反観」ができるわけです。 さて、定常化定数の話しです。 2億6000万年前から2億2000万年前まで、ほぼ4000万年にわたって繁栄した哺乳類型爬 虫類が生きていた時代も、生態系の定常化定数は<1>でした。なぜそう言えるのかというと、 存続していたからです。 【参考HP】 http://big_game.at.infoseek.co.jp/Therapsida/Dinocephalians.html  約2億3000万年前、三畳紀後期に恐竜が地球上に登場し、6500万年前、おそらくは小惑星 の衝突で地上から姿を消しました。 生命誕生以来、様々な生物と、生物種の時代が在ったわけですが、どの時代においても、生体系の 定常化定数は<1>であったと仮定できます。 日本の朱鷺は、存続するのに必要な定常化定数1から、遠のいてしまったために絶滅しました。 朱鷺を取り巻く環境が、そうなってしまったのです。朱鷺とその環境は一体のものです。『玄語』 で言えば、「中外」の論理が該当します。朱鷺とその存続に必要な環境の関係は、「中」と「外」 の関係です。「外」が失われたために「中」も消えました。 ある面積、たとえばアマゾンの周辺領域の定常化定数が1以下になれば、アマゾンの面積は縮小し ていきます。アマゾン全体の定常化定数が1以下になって、もはや生物種の存続が不可能となれば、 アマゾンは消えていきます。 このとき、地球全体の定常化定数も1以下になりますので、地球はこれを復元するために、活動し ます。この活動は、まず局地的な破壊をもたらし、次の安定化のための環境を作ろうとします。 この活動の前には、人間の作った文明や都市など、ひとたまりもありません。多くの犠牲を伴いま すが、しょせんはひとつの種でしかない人類に文句を言う権利はありません。地球を相手に「人権」 を言い立てることはできません。人類が絶滅に追いやってきた多くの種のことを考えると、なおさ らです。 一方で、人工的に作られた生態系もあります。たとえば、ニュージーランドやオーストラリアの 生物種は、白人が住み着くまでとはまったく異なっています。ですが、人間がそこに存在するこ とによって、定常化しています。 もし、人間が居なくなれば、羊や牛たちのほとんどは死んでしまうでしょう。 日本の山も、多くは人工的に作られたものであり、原生林とは違っています。原生林は、簡単には 人間は入れません。東山魁夷の描く杉の林などは、人工的に作られた風景の描写です。奈良や京都 の風景が美しいのも、それが千年前以上も前に、美しくなるように計画的に作られたものであるか らです。 棚田などもそうです。美しく見えますが、それは人工的な自然であり、人が介在することによって 定常化しています。耕地はすべて人工的なものです。人は、人工的に作られた自然には美を感じま すが、原始の自然にはそれを感じることができません。ルノアールがアマゾンで印象派の絵を描く ことは考えられません。彼は、しょせん、ライオンにとっては餌であり、ヒルや蚊にとっては、血 を吸うための生き物に過ぎません。彼は絵を描くことよりも、毒蛇を恐れることに神経を費やすで しょう。 最近は、農作物を育てるのに、土は必要ないことが分かってきています。水耕栽培で稲を作れます。 その他、いろいろな作物を作ることができます。 稲を作るのに田圃が必要であるわけではないのです。天候の影響を受けない巨大なドームで作れる でしょう。虫が入らないようにしておけば、農薬は不要でしょう。現に、都会のビルの地下で、そ うやって農作物を作っているところもあります。 さて、『玄語』が地球生態系の論理モデルになっているとしても、それを再現する場合に、地球を 丸ごと再現しなければならないわけではありません。 コンピュータ上でシミュレートされ、かつ、実際に作り出せる生態系は、無数にあると、私は考え ています。 生命40億年はるかな旅 9 「ヒトは何処へいくのか」 http://cyber.tokaigakuen-u.ac.jp/cosmos/century/seimei6.htm から転載します。 --------------------------------------------- アナ(女):地球の生命は、どのようなシステムをつくれば生きていけるのか、具体的な研究も始ま っています。  アメリカ・アリゾナ州、バイオスフィア2と名付けられたこの施設には、地球の生態系がそのまま 再現されています。1万3000㎡もある巨大なガラスドームの中には、3800種類の動植物が入れられ、 熱帯雨林や海まで造られています。 (略) アナ(女):バイオスフィア2の実験は、地球と生命が織り成す生態系が、いかに複雑なものであ るかを教えてくれました。地球環境にとって大切な役割を担っている熱帯雨林についても、そこに どれだけの生物がいて、どのように関わって生きているのか、私達はまだよくわかっていないので す。  火星に生命の世界を築こうという計画も、地球と生命のことを知らなければ、実現することは不 可能なのです。クリストファー・マッケイ博士は言います。 クリストファー・マッケイ博士:この計画を研究する理由のひとつは、実は地球を理解する為なの です。火星に生命の世界をつくることを考えることで、逆に地球と生命のことを知る事ができるの です。きちんと学ばないと、悲惨な結果になります。好むと好まざるとにかかわらず、人類はこの 地球と生命にたいして大きな責任があります。人類の影響はあまりにも大きく、もはや地球の自浄 作用に任せておくわけにはいかないのです。ですから、私たちはもっと生命について、学ばなけれ ばならないのです。 アナ(女):人類は、20世紀に宇宙に進出しました。そして、無限に広がる世界と考えられてきた 地球が、実は小さな惑星にしかすぎないことを実感したのです。地球を包む青く輝く大気、その中 で生命は共に生きています。私たちは、宇宙に出たことで初めて地球の大切さを知ったのです。 --------------------------------------------- この問題に、結果的にではありますが、人類史上初めて取り組んだのが、日本の三浦梅園でした。 彼は、思考の中で、まるで宇宙飛行士のように、地球を外から見ることができた人でした。 そして、 # 地球の生命は、どのようなシステムをつくれば生きていけるのか? ではなく、   # 地球の生命が、どのようなシステムをつくって生きているのか? を、彼は『玄語』という書物に書き記しています。 だから、アメリカでのこのような実験と『玄語』とは、リンクすべきであると考えています。 国際的な研究が必要なのです。 人間が自然界に介入しても、定常化定数1を保持することができれば、人間を含めたその系は、 存続できるはずですが、現代文明は、残念ながら、この条件を満たしません。これは、定常化 定数を地球規模で、  G<1 にしてしまう多くの要因を持っています。温暖化もそうですし、原子力エネルギーもそうですし、 戦争や、それに使われる武器もそうです。 取り返しの付かない破綻がすでに始まっているとしても、我々は、まだ打つべき手があるので ないでしょうか? *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                     北林達也 以前、テレビで閉じたガラス玉の中で、小さな魚が泳いでいる、小さな生態系を見たこと があります。ガラス玉はむろん中空で、上半分が空気、下半分が水、その中に砂があり、 水草が一本生きていました。これが酸素を発生させ、その酸素を、小さな魚がエラで呼吸 しているわけです。 この生態系は、一定時間持続して存在します。これに『玄語』の用語を当てはめてみま しょう。いくつの条理語から、この系はできているのでしょうか? まず、「水」があります。「空気」があります。「魚」が居ます。「水草」があります。 「砂」があります。これらが内部で定常状態を保っています。 しかし、水草には光合成のための「光」が必要です。一応、24時間程度は、定常状態 が保たれると仮定しますと、一日中明るいとまずいでしょうから、「暗さ」も必要でしょ う。「時間」も「空間」も必要でしょう。 とりあえずこれくらい数え上げて見ると、 構成要素 その条理語  気物の別 天地の別 空気     燥     気    天 水      水     気    地 魚      魚     物    天 水草     草     物    地 砂      砂     物    地 光      明     気    天 暗      暗     気    地 時間     時     気    天 空間     処     気    地 これ以外にも、魚の活動性は「神」(しん)の働きですし、じっと動かない水草のあり方は 「本」の働きですから、これらも加える必要があります。さらに「上」「下」「左」「右」 なども加わります。 この系には、始めと終わり、つまり「始」と「終」があります。これは、この系の「端」(たん。 始めと終わりの両端)です。その間の延長は「長」とされます。 魚=物×小×水生×鱗 となるでしょう。 私が見たものには、魚は一匹しか居ませんでしたので、雌雄はありませんでしたが、仮に 雌と雄が居ても、世代を継ぐことはこの系では無理でしょう。つまり、「鱗比」(りんぴ) と言われる世代交代は起こりえません。 つまり、この系の構成要素では、世代交代を実現するだけの定常性を維持できないわけです。 何が足りないのでしょう。 閉じたガラス玉の中で、魚が卵を産み、卵が稚魚となり、成魚となるのに必要な要素は何 でしょう。 それが行われている小さな池はたくさんあります。それを丸ごとガラス玉に閉じ込めてし まったら、閉じ込める前と同じように存続できるでしょうか? 存続できないとしたら、何が足りないのでしょうか?  視点を移して、このように考えてみましょう。 地球のような閉じた生態系の定常化定数をGとし、G=1と仮定します。もし、G=1である別 の系を人工的に作った場合、それは地球生態系と同じ持続性を持つでしょう。 しかし、それはおそらく地球と同じ空間的容量を必要とするでしょう。なぜなら、G=1は、 すべての存在物に平等に割り振られねばならないからです。 たとえば、砂漠は必要ないでしょうか? 砂漠にも適応した生物は居ます。ジャングルは必要 ないでしょうか? 毒蛇やヒルのような生き物は必要ないでしょうか? 近寄りたくはないが、 彼らも生存の権利を持っています。 深海は必要ないでしょうか? 深海にも適応した生物は居ます。地中深くにも生物(バクテリア) が居ます。 かれらは、地球の歴史に於いて起きた大破滅(巨大惑星の衝突や地中の溶岩が地表に噴出するスーパー プルームのような現象が原因)から新たな生物圏を作り出した立役者であるかもしれません。もし そうならば、どんな原始的なバクテリアにも G=1 が成立します。 原始的なバクテリアひとつの定常化定数と、地球生態系のそれは、同じなのです。 私はこれを<等価性の原理>と呼んでいます。『玄語』の「一」は、等価性のことであると考えて います。 もし、ある種の数が異常に増えすぎて、他の種の存続を脅かすならば、その種は、他の種の権利 を奪っていることになります。 いま生きている人間の民主的権利だけではなく、すべての存在物に対して生態学的な平等性が保障 されねば成りません。そのための基礎理論が作られねば成りません。それは次の世界のためのグラン ドデザインとして、理念的であるだけでなく、工学的に設計されねば成りません。 生物の大量絶滅は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べますと、 1 原生代末の大量絶滅 2 オルドビス紀末の大量絶滅 3 デボン紀後期の大量絶滅 4 ペルム紀末の大量絶滅 5 三畳紀末の大量絶滅 6 白亜紀末の大量絶滅 7 完新世の大量絶滅 とありますが、このうち7の「完新世の大量絶滅」のひとつは、現代文明による種の殺戮です。 文明による種の殺戮の対象のひとつには、人類も含まれていると考えられます。 このままでいいのでしょうか? 私が、執拗に『玄語』を研究している理由のひとつには、このような思想的背景があります。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 三浦梅園の天文知識についてのお話です。 8912: G0176U-011 而して衆辰は皆な暗象なり。景中に同居す。小なる者は見難し。 8913: G0176U-012 或いは日に傍(かたわら)して繞(めぐ)る。 8914:  或いは歳?(さいてん)に傍して繞る。 8915:  僅かに鏡力を假りて之を見る。 8916: G0176U-013 顕なる者は?を為し、歳を為し、?惑(けいこく。えいこく)を為し、太白を為す。 8917: G0176U-014 辰は則ち日に近し。日に近きに因りて其の旋を急にす。夫れ 【語彙】   景中 --- 太陽の光の当たる範囲。「中」は領域。  鏡力 --- 望遠鏡の力。  辰  --- 水星。  歳  --- 木星  ?  --- 土星 という記述がありました。 8916: G0176U-013 顕なる者は填を為す。歳を為す。?惑を為す。太白を為す。 8917: G0176U-014 辰は則ち日に近し。日に近きに因りて其の旋を急にす。夫れ は、 8916: G0176U-013 はっきり見えるものは、土星、木製、火星、金星である。 8917: G0176U-014 水星は太陽に近い。太陽に近いことによって、その旋回を急速にする。そもそも 「を為す。」という表現は、実態としての天体がそこにあるというよりは、「現象化する」の意味合いが 強いように感じます。これらも一元気の現われですから、そういう表現になるのでしょう。 木星の場合は、衛星であるとして、土星の場合は、カッシーニが複数の輪と2個の衛星(ディオネとテティス) を、それぞれ1675年と1684年に発見しておりますので、どちらのことか分かりませんが、情報としては、 たぶん、どちらも知られていたと思われます。 ぺりかん社版 552頁 中央部。(デジタル資料 80/99) 地動説・天動説うんぬんレベルではなく、もっと深く・広く天文現象を知っていたと思われます。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 条理語は"アイコン"である、というお話の続きです。 前回のお話は、ちょっと行き過ぎていました。 すべての条理語がアイコン化できるわけではありません。アイコン化できない条理語の方が 多いですね。 たとえば「本」(ほん)は、「持続性」を意味しますが、「持続性」をどうやってアイコン化 すればいいでしょう? 「神」(しん)は、「活動性」を意味しますが、どうやってアイコン化すればよいでしょうか? 「鬼」(き)は、「潜在的で予測不能な状態」を意味しますが、どうやってアイコン化すればよいで しょうか? 「与」(よ)は、条理によって出現した存在物相互の、偶然的な関係を意味しますが、どうやって アイコン化すればよいでしょうか? 必然的な到来を意味する「天」と、それを避けることのできない受容性を意味する「命」(めい) は、どうやってアイコン化すればいいでしょうか? (例:四季の訪れは「天」であり、四季に 従う自然界の変化は「命」です。) こういうものは、アイコン化できませんね。少なくともやりづらいですね。アイコン化できる条理語は、 いわば表層的なものです。具体的な指示対象が、物体として存在するものです。 パソコンの画面にあるアイコンの背後には、膨大なシステム・プログラムが隠されています。 そういうシステムの部分の研究は、まだまだこれからの課題ですが、その気になれば短期間に解ける と思います。今のところ、私ひとりが孤軍奮闘している状態ですから、遅々として進みませんが・・・ 地球生態系のコンピュータ上でのシミュレート、また、可能的なあらゆる生態系のシミュレートは、 今後の世界にとって、極めて重要な課題であると思います。 全世界のすべての知性を集中させねばならないほど、重要な問題であるはずです。 これができたら、ノーベル賞ものですよ(^^) *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 条理語は"アイコン"である、というお話です。 先に、 > これらの語は、現代の用語に置き換えても構いません。「矩」ではなく「地軸」で良いし、 > 「規」ではなく、「天体の軌道」で構いません。 と書きましたが、国際的な利用を考えれば、文字なんてものは使わない方が良いに決まっています。 結局ですね。『玄語』を構成する人工言語である条理語は、コンピュータ上の"アイコン"と何ら 変わらないものなのです。条理語相互の関係は"リンク"に他なりません。 アイコンとそのリンク先、リンクの構造、それ以外のものを『玄語』は書いていないのです。 ウインドウズのショートカットをクリックしたらプログラムが起動するように、条理語のアイコン をクリックしたら、自然界に実在するその実態がマルチメディアデータとして表示されれば良いわ けです。 それが可能な範囲が『玄語』の応用可能な部分であり、それができない部分は、歴史的文献として の『玄語』に帰属するものです。その部分は、歴史的文献の研究対象として貴重なものではあるで しょう。 私が今やっている資料整備は、あくまでも応用研究のためのものであって、歴史的文献としての 『玄語』を思想的・哲学的に取り扱うためのものではありません。 がんらい私は門外漢です。漢文の読み方など習ったこともありません。その私が資料整備を始めたら これまでの学者先生方のお仕事が、あまりに杜撰で使い物にならないことが分かったために、やむを 得ず、自分で資料整備を始めたわけです。かくして20年近い歳月が経ちました。 だからですね、これまで『玄語』について何ごとかを書いてきたお偉い先生方に、こう申し上げたい のです。  # 少しは反省しろ!! *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 ぺりかん社 三浦梅園資料集 『玄語』下巻 526頁 --- 安永本 527頁 --- 浄書本 文のつなぎは、606頁の付箋53 です。 デジタル資料では、文化庁の担当者が、きちんと修復しています。58/99 です。 もっとも、文化庁の担当者でも、 526頁 デジタル資料58/99右 --- 安永本 527頁 デジタル資料58/99左 --- 浄書本 は、判別できなかっただろうと思います。 もっとも、「浄書本 地冊露部」は、安永本からの組み込みがあるので、浄書本、安永本 という区分は便宜的なものです。 梅園には、新たに浄書する体力は無かったのでしょう・・・・ 『玄語』を論じる人の中で、ぺりかん社版『玄語』を丹念に読んだ人は数えるほども居ません。 苦労して作られた資料なんだから、もっと丹念に読まないとね。 いまのところ、ぺりかん社版を持って、資料館に行き、デジタル資料との突き合わせ作業を 行うしか、『玄語』自筆稿本の写しを自分の手元に置く方法はありません。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 『玄語』をコンピュータに取り込む方法のお話です。 「大物」と「小物」に関していえば、画面上の「大物」という語をクリックした時に「天球」 が表示され、「小物」をクリックした時に地球表面の動植物類が表示されればよいわけです。 ただし、このふたつのものは、条理的に一対の存在ですから、一方が表示されるときには、 必ずもう一方も表示されねばなりません。 また、天球が表示されている時に、「大物」の他の構成要素も、たとえば、下の欄に表示さ れていなければなりません。たとえば、「日」「月」「星」「辰」「規」「矩」などです。 これらの語は、現代の用語に置き換えても構いません。「矩」ではなく「地軸」で良いし、 「規」ではなく、「天体の軌道」で構いません。 『玄語』を理解するのに、漢文を読む練習をする必要はありません。仮に素晴らしい研究書 が書かれたとしても、それは「人」の「偽」のひとつである「書」に分類されるだけです。 そんなもの、読むだけ無駄です。 梅園は、『玄語』そのものが余計なものだと書いています。 15466: G0004U-004 人は小境を開きて、亦た天と勢を張る。蓋し 15467: G0004U-005 人はもし天地に達観せんと欲すれば、但だ 15468:        天に観て、而して之を天に獲、 15469: G0004U-006 人に観て、而して之を人に獲んことを要す。 15470:        書と図とは皆な贅疣なり。姑(しばら)く魚兎の為に筌蹄を設くるのみ。故に            ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ぜいゆう【贅疣】   [1] こぶやいぼのような無用の肉。贅肉。   [2] むだなもの。無用の長物。(Yahoo辞書。国語辞典)   せんてい【筌蹄】   《「荘子」外物から》1 魚を捕る筌(うえ)と兎を捕る蹄(わな)。目的が達成されると不要になるもの。   目的を達成するために利用する道具・手段。2 物事をするための手引き。案内。(Yahoo辞書。国語辞典) 「目的が達成されると不要になるもの」です。理解したことを本に書くのは、文科系の大学の先生方 にお任せしましょう。 『玄語』の世界像の全貌をマウスのクリックだけで、見ることができるようになれば、それは グーグルアースよりは、マシな仕事になるでしょう。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 人工言語体系である『玄語』をコンピュータに取り込み、実験を行う、というお話です。 生態系には「平衡条件」というものがるはずあり、その平衡条件を満たせば、たとえ小さく ても、それは生態系として存在しうるはずです。「生態系工学」の提唱です。(^_^) 条理語は、一語一義を原則とします。対象やその様態を指示する名辞、または、対象間の関係 を指示する名辞が、原則として「一語」で表されているということです。 たとえば、「大」「小」は、その意味で一語一義の名辞です。これは様態を指示します。 「物」もそうです。これは、ほぼ物質と同義です。ただし、広い意味では、存在全体も 「物」とされることがあります。 大物(だいぶつ) --- 地球を包む存在物。天文気象現象の総称。(大が物を形容する。) 小物(しょうぶつ)--- 地表に存在する小さな物。動植物。鉱物類など。(小が物を形容する。) これらは指示する対象が、それまで知られていなかった物です。つまり、動物・植物・鉱物類 を要素として持つ集合名としての「小物」は、存在しなかった語です。 「小物」という語が生まれたのは、地球を包むものとしての「大物」が認識されたことによります。 当時はまだ大地が四角であると考えられていた時代でした。ですから、『天経或問』のような 書物や、長崎旅行で知った西洋の宇宙観から、大地が球体であって、空間に浮かんでいるという ことを知ったことは、驚異的な発見でした。(これが驚異的な発見であったということを示した のは高橋正和氏です。ただ、この説を支持するのは今のところ私だけでしょうか・・・) 三浦梅園の思想 高橋正和著(ぺりかん社) 税込:2520円 この時代から、「地球」という語が発生してきます。『玄語』では「地毬」とも書かれたりしています。 <「地毬」による検索例> 16222: G0018U-014 天地の形は其の円きこと毬の如し。故に 16223: G0018U-015 地球は即ち地毬なり。水火の地は其の上に襲す。 16224: G0018U-016 或いは併せて実毬と謂う〉或いは地毬実毬を分つ〉 ここでは、地球は梅園らしく 地×物 = 丸い地の固まり と認識されています。 これを覆う(襲す)ものとして、「水球」(海洋圏)と「燥球」(大気圏)があります。 「燥球」の中でのみ「火」が燃えます。しかし、火は何かが燃えることによって発生しま す。木が燃えている場合、火は樹木を「地」としています。その意味では、地表は「火の 地」でもあります。 また文例から、我々が地球と読んでいる語は、この文例の中では、「実球」とされており、 それは、「地球+水球+燥球」のことであることがわかります。 <「地球」による検索例> 2171: G0059L-008 地球は一塊。半面を見(あらわ)せば。則ち半面を隠す。 6056: G0124L-011 地球の実する所を出ずれば〉則ち水球燥球、相い重なる〉 8015: G0161L-012 陰成は水燥を以て地球に襲す〉(陰は代用文字) 12144: 一大地球は、舟楫の探る所なり。 13579: 混然たる一地球。水燥は裏虚の円を為す。(「裏虚の円」の虚の空間に地の球体があります。) 16223: G0018U-015 地球は即ち地毬なり。水火の地は其の上に襲す。 16263:        液は則ち水燥にして地球と合す。 16264: G0019U-009 華は則ち日影にして天球と合す。之を天地の分と為す。(前文の対文) 16263:と16264:で用いられている「液」と「華」は、梅園の造語です。 16287: G0019L-007 然れども日火は自ら専主有り。故に天日地水の偶は、古より専称無し。 16288: G0019L-008 故に今 華液と称し、以て偶名と為す。 <北林訳> 16287: G0019L-007 しかしながら、日と火とは自らその指示対象が定まっている。            だから、天の日と地の水の一対の関係には、歴史的な呼称がない。 16288: G0019L-008 それで、今 華液と称することにして、これを以て対応関係を持つ名辞と            為すことにする。 ここで梅園が述べていることは、新たに発見した指示対象に歴史的な呼称(名辞)がないので、 あたらに名を付けるということです。 これは、生物学などで新種を発見した時に、新しい名前を付けたり、新しく発見された彗星に 新しい名前を付けたりするのと同じです。 梅園は、極めてマクロ的な、また極めてシステム的な世界観・宇宙観・人間観などを構築する ために、独特の表現を用いては居ますが、それは歴史という大きな舞台の、必然的な発生のひ とつであったと思います。 それは、いまのところ、稀少品種の種のような存在ですが、肥沃な大地に植えれば、新しい緑を 作ることでしょう。 その肥沃な大地は、おそらくコンピュータであろうと予測しています。梅園は、漢文法にした がって『玄語』を書いていますが、それが適切な文法であるとは思えません。また名辞に歴史 的文字を用いていますが、それが適切とも思えません。 漢字では文字資源に限界があるため、反復利用があまりに多くなりすぎ、誤解の種になってい るからです。 解決策としては、『玄語』をコンピュータに取り込める形に書き換えることが考えられます。 書き換えられた『玄語』は、様々な生態系モデルをシミュレートできるはずです。 シミュレートされた生態系は、たとえば、魚と水燥が生きている、小さな閉じたガラスの球の ように、実際に作り出せるはずです。 そのシミュレートの最大のものが、地球生態系であり、それを記述しているのが『玄語』です。 『玄語』は、地球生態系の論理モデルになっています。 書き換えの場合、漢文法は足かせになりますから、一切無視して構いません。一対一の対応関係 のみが記述のひとつのルールにはなるでしょうが・・・ たとえば、文字コードテーブル上の条理語(これは符合に過ぎませんし、同字異語の問題が起き ないように判別の方法が付与されねばなりません)の整合的な関係を記述できるプログラミング ができれば、それは、漢文法よりも、『玄語』にとって適切な文法であると言えるでしょう。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 一転して、『玄語』は人工言語体系である、というお話です。山田慶児さんの言った意味ではなく、 もうちょっと深く解釈してみます。以下、箇条書きします。 1.『玄語』の独自の用語は「条理の言」と言われる。今日では一般に「条理語」と言われる。 2.「条理語」は、自然界を構成する対象、およびその関係に対して付けられた名辞である。 3.西欧の自然観を知ることによって、梅園はあらたな世界像を獲得したが、そこには、経験的に   は知られていなかった対象、または、経験的に知られてはいたが、大幅な概念の拡張を必要と   する対象が多数存在した。それらには、当然ながら、歴史的・経験的名称が付与されていなかっ   た。あるいは、経験的名称をそのまま使用することが不適切であった。 4.このため、梅園は、これらに新たに命名せざるを得なかった。これを「条理の言」(「条理語」)   と言った。 5.これに対して、経験的な名称は「散言」と言った。個物の名称などは「散言」であり、これは、   自然言語(「通称」という)である。 6.条理語は、歴史的・経験的に用いられていない語であり、梅園独自の意味付与が為された人工的   な語彙である。   5と6の文例   16237: ○明暗に色と曰い、黒白に彩と曰い、気に交と曰い、物に接と曰うは、條理の言なり。   16238: 然れども散言は、通称に従う。 7.条理語の記述には、ふたつの形式がある。文と図である。 8.文は、漢文法にしたがっている。しかしながら、条理語からなる文は、読めるが意味が分からない   という性格を持つに至る。たとえば、四個の条理語からなる熟語である「本根精英」からなる以下   の文は、どれも意味不明である。たとえば、     233-234: 若し気物体性の本根精英を為すに非ずんば、則ち豈に相い依って一を成せんや。  この中で使われている条理語は、「気物体性」「本根精英」「為」「一」「成」である。  これらを*で表記すれば、この文は、  233-234: 若し****の****を*すに非ずんば、則ち豈に相い依って*を*せんや。  原文ではこうなる。  233-234: 若非気物体性之為本根精英。則豈相依而成一哉。  同様に*で表記すると、  233-234: 若非****之*****。則豈相依而**哉。  このうち「相依」は、「相反相依」(そうはんそうえ。相い反し相い依る)として用いられるので  これも条理語であるが、経験的用語から類推できるので残した。『玄語』は、おおむねこういう意  味不明の文の羅列の感を呈している。  233-234:のなかで条理語でない語は、漢文法の構文上・修辞上の必要性を満たすためだけのもので      ある。 9.このような文の意味が分かるのは、条理語の意味が分かってからのことである。 10.梅園は、条理語の定義を随所で行っている。その定義集はひとつの辞書の様相を呈している。つまり   『玄語』は、自己を構成する用語を、自己自身の内部で定義しながら書いているのである。つまり『玄   語』を解読するための辞書は、『玄語』の内部にあるのであり、それもまた条理語で書かれているので   ある。 12.条理語の定義は、おおむね「なる者は・・也。」「なる者は・・す。」という文型で為されることが    多い。たとえば、 1145: 徳なる者は〉天なり〉一の有なり〉貌跡は自ら成る〉 1146: 道なる者は》神なり》二の開なり》機状を為さ使む》 1151: 徳なる者は〉万緯の得て宅を為す所なり〉 1152: 道なる者は》万経の由て路と為す所なり》 1155: 性体なる者は〉気物に託する者なり〉 1156: 気物なる者は》性体を有する者なり》 1157: 性体なる者は〉生活し体立す〉 1158: 気物なる者は》気没し物露す》 1185: 道なる者は神なり〉 1188: 徳なる者は》天なり》 1200: 精なる者は〉有して遺さず〉 1201: 麁なる者は》融して一なり》 13.文は漢文法で書かれ、図は、独自の図法で描かれている。その図の中に条理語がある。 山田慶児氏の解説にある  # 『玄語』が(外延的に)定義された概念群と厳密に二分法的な思考法とによって構成された、    人工言語体系を駆使している(以下略) (外延的に)としたのは、これが間違いだからであるが、「定義された概念群と厳密に二分法的な 思考法とによって構成された、人工言語体系を駆使している」と明確に言いうるのは、文ではなく 『玄語』の図である。つまり文法ではなく、図法の方なのであるが、図法は『玄語』の研究史にお いては伝統的に軽視されており、いまもって、条理語と条理の図(条理図)の整合的説明は為され ていない。 14.梅園の思考にとって、用いられる文字、用いられる文法は、いわば仮のものである。それは 「声」(せい)と言われ、指示対象である「主」の名辞であるとされる。 15.従って、『玄語』を読むということは、『玄語』が指示する対象を知るということでなけれ  ば、そもそも読む意味がない。   16.『玄語』は、末木剛博氏によって、ウイン学団と対比されている。山田慶児が指摘したよう  に、「人工言語体系を駆使しているという意味で、梅園の哲学は分析哲学になぞらえることがで  きる」のである。末木氏もこの点では同じ見解を持っている。   17.ただし、末木論文「玄語の論理-その1-」に、以下のように書かれていることに注意しな ければならない。 〔十五〕この方法は最初にも触れたように今世紀前葉のウイン学団(Wiener Kreis) の主張と近似した面が少なくないのであるが、相違点もあるのは勿論であり、そ こに『玄語』の特徴が見られるのである。それ故、両者を対比してその要点を列 挙して置きたい。 (1)両者の相似点 --両者共に二つの方法を綜合して居る。すなわち、 (1・1)個々の経験による具体的な認識内容の提供 (1・2)論理的思考による一般的な認識形式の提供 (1・3)両者の結合による認識の成立。 (2)両者の相違点 (2・1)経験に関して (2・1・1)ウイン学団は経験そのものではなく、個々の経験についての 記述命題(Protokol-Satz)から出発する。 (2・1・2)『玄語』は経験そのものから出発する。 (2・2)論理的思考について (2・2・1)ウイン学団は専ら言語分析のために論理を用いる。その基本 原理は矛盾律である。 (2・2・2)『玄語』は認識体系を構成するために論理を用いる。その基 本原理は排中律(「反合」)である。 (2・3)論理実証的方法の効果について (2・3・1)ウイン学団は諸科学の批判を介しての統一(統一科学)を目指す。 (2・3・2)『玄語』は合理的な世界像の構築を目指して居る。 (2・4)要約していえば、 (2・4・1)ウイン学団は論理実証的な認識批判である。 (2・4・2)『玄語』は論理実証的な世界像の構成である。 18.たしかに「人工言語体系を駆使しているという意味で、梅園の哲学は分析哲学になぞらえるこ  とができるだろう」。しかし、そこで言及をとどめた山田慶児氏と、両者を比較し、類似点と相違  点とを明確に列挙した末木剛博氏とでは、学者としての見識に雲泥の差がある。 19.山田慶児氏の「黒い言葉の空間」は、おおむねそのレベルの記述で推移しており、そのなかに  基礎的な語彙に対する理解不足が散見されるのである。 20.末木剛博氏の(2・4・2)『玄語』は論理実証的な世界像の構成である。  に対する山田慶児氏の答えは、      だがそれは、思考法の単調さと世界像の内実の貧しさという代償のうえに、はじめて   達成されたのである。(前出143頁)    というものであるが、これはいかにも貧相であるといわざるを得ない。「思考法の単調さと世界像  の内実の貧しさ」という言葉は、『玄語』というスクリーンに投影された山田慶児氏の頭脳に似つ  かわしい。 21.山田慶児氏に『玄語』の描く世界像の内実が貧しく見えたのは、『玄語』が構成している世界   (『玄語』という書物が指示している対象としての世界)が彼に見えなかったからに他ならない。 22.『玄語』は、それが描く世界像が見えなければ理解できない書物である。 23.その世界像が伝統的世界観とは異なる新たなものであったのであるから、それを描写する  ためには、経験から離脱した新たな用語と表現方法に用いざるをえなかった。その意味では、  『玄語』はあきらかに「人工言語体系」なのである。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 『玄語』は人工言語体系ではない、というお話の続きです。 山田慶児さんの主張は、日本の名著『三浦梅園』(中央公論)160頁にあります。     自然を探求するには先人の言葉でなく、直接に自然に向かわねばならぬ、と主張する梅  園の哲学の立場を追いつめてゆくと、それは結局、条理の言葉、『玄語』の「文法」に帰  着する。のみならず、わたしの考えでは、梅園の理論のなかでももっとも精細を放ってい  るもののひとつが、この言語や記号や表現に触れた部分なのだ。この逆説ほど、梅園の哲  学とはなにかを雄弁に物語るものはないだろう。『玄語』が外延的に定義された概念群と  厳密に二分法的な思考法とによって構成された、人工言語体系を駆使しているという意味  で、梅園の哲学は分析哲学になぞらえることができるだろう。 そのまえの143頁には、山田慶児氏の『玄語』感が端的に語られている。   これほど透明な世界の構造を、わたしたちはほかに求めることはできまい。だが、ふた  たび裏返していえば、それは第四に、ある種の貧困さを意味する。梅園の構築した世界像  は痩せている、とわたしは思う。たしかに、シンメトリーの静的な形式美には満ちみちて  いるものの、対称性を破るところから生まれる、動的な、偶然的な、不安定な美がない。  その世界は変化と多様性のもつ豊かさに欠けている。   厳密な思考法と透明な世界像、それはまぎれもなく一個の頭脳の驚嘆すべき構築物であ  り、ひとのこころを惹きつけずにはおかぬ魅力をそなえている。だがそれは、思考法の単  調さと世界像の内実の貧しさという代償のうえに、はじめて達成されたのである。達成と  その代償は、ひとつの事柄の表と裏である。二匹の兎をいっしょに捕らえることは誰にも  できない。梅園は世界の普遍性と同一性を憑かれたように追い求める。あたえられた言葉  もそのフィルターにかけられ、濾過され、整序され、再構成されて、かれみずからの言葉  となる。その言葉によって射影される世界は、その言葉にふさわしい象をスクリーンのう  えに結ぶ。それが『玄語』にほかならぬ。 私は、山田慶児氏の言う「人工言語」にアレルギーを生じてしまいました。というのは、ここで氏は、  # 玄語=人工言語体系=単調な思考法=内実の貧しい世界像 と結論づけています。ここから「玄語」を取り除いて、  # 人工言語体系=単調な思考法=内実の貧しい世界像 という評価をしたら、人工言語体系(複数あります)の研究者たちは怒りますよ。 ここから、「人工言語体系」を取り除いて、  # 玄語=単調な思考法=内実の貧しい世界像 としたら、『玄語』の研究者は怒りますよ。(私は長いこと怒っている・・・)  「玄語」と「人工言語体系」を取り除いて、  # 単調な思考法=内実の貧しい世界像 としたら、それは納得できるでしょう。「君、それはちょっと単調すぎるんじゃないかね?」 という批判は、「内実がとぼしいんじゃないか?」と言っているのとほぼ同じですから。 もし、「単調な思考法=内実の貧しい世界像」を取り除いて、  # 玄語=人工言語体系 としたうえで、新たに考察し直せば『玄語』を人工言語体系として見る視点は成り立つでしょう。 また、『玄語』を構築する「条理語」が「外延的に定義された概念群」とするのは、間違っています。 どれかひとつでもいいから、語の例を挙げて欲しいものです。 「『玄語』の「文法」」って書いてますけど、『玄語』は漢文法にしたがって書かれていますよ。 『玄語』に特有の文法というのはないですよ。特有の修辞法はありますけどね・・・・ だから、まあ、これだけ我が郷土の先人のことを悪く書いてくれたんだから、私も書かせてもらい ますけど、  # 単調な思考法=内実の貧しい世界像 を『玄語』というスクリーンに投影して、それを見たのは、山田慶児さん、あなたご自身でしょう。 あなたの能力が、『玄語』という難物に届かなかっただけのことでしょう??? *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 『玄語』は人工言語体系ではない、というお話です。 『玄語』を人工言語の体系と評したのは、山田慶児さんだったと思いますが、これは、 おかしな話しで、むしろ、明治以降の、西欧の学問を漢語で翻訳した、こんにちの我々 の使っている日本語の方が、人工言語です。 以前にも書きましたが、「蒸気」という言葉は、福沢諭吉が作ったものです。これは造語です。 「空気」も「大気」も造語です。梅園は「燥」という文字を当てています。 「燥」が人工言語で、「蒸気」「空気」「大気」が人工言語ではないという判断は成り立つの でしょうか? 造語圏=人工言語圏 に居るのは、我々の方です。 梅園は、一対一対応の原則に従って、条理語を原則「一語一義」にしています。そういう制約は ありますが、造語の数で言えば、我々が使っている日本語の方が圧倒的に多いですね。 だから、『玄語』を人工言語体系と解釈するのは、はなはだ疑問ですね。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 ぺりかん社版『玄語』影印版 下巻 地冊露部 518頁と519頁は、 518頁 --- 浄書本執筆時に新たに書き起こしたもの。 519頁 --- 安永本から抜き取って挟み込んだもの。 そのため、518頁の終わりが、本文の「故」になっており、519頁の初めが、二行分かち書き になっています。文がつながりません。 519頁の分かち書きの頭に△印が付けられています。これに繋がるのが、605頁の付箋集の 50番です。終わりが△印になっています。終わりの△印から初めの△印に文が繋がります。 昭和44年に高橋正和氏が複写したときは、これが剥がれていました。現在三浦梅園資料館にある 『玄語』は文化庁が復元していますので、もとの位置に貼られています。さすが、文化庁を名乗る だけのことはあると思います。 518頁-付箋50-519頁 の順で読むと、文が通ります。  『玄語』は、地元大分に住んでいないと、本格的な研究はできないという見本でもあります。 資料館まで行って、デジタル化された画像資料を見ないとわかりません。 ま、『玄語』は心中する気でやらないと解けませんわ・・・・ 分かったようなことを書いている中央の先生方の書かれたものは、あまり信用できません。 三枝博音の偉いところは、分からないところは「分からない」、研究の及ばないところは、 「研究が及んでいない」と明確に書いているところです。時代が大きかったんでしょうけどね。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 『玄語』における明らかな間違いの例です。思考のパターンが優先して、現実の事象と、梅園の 記述が一致しません。 これと関係しますが、私は、『玄語』最終稿本の中に、「氷が水に浮く」という現象の説明を読んだ ことがありません。「氷」で全文を検索しても出てきません。ここは、不問に付しているわけです。 「条理」の構造からすれば、氷は水より小さく、かつ水に沈まねばなりませんが、実際はその逆です。 7843: 収の極や凝なり〉 7844: 発の極や散なり》故に 7845: G0154L-009 甕中(おうちゅう)の儲水(ちょすい)は〉凝すること甚だしくして気を聚斂すれば〉 7846:        終に其の器を砕く〉 7847: G0154L-010 爆竹の鬱火は》逼(せま)ること急にして気を発出すれば》 7848: 以て其の質を裂く》故に 7849: G0154L-011 収して之を収すれば〉氷の大きさは〉水より小なり〉                      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 7850: G0154L-012 発して之を発すれば》火の大きさは》薪より大なり》是を以て 7851: G0154L-013 氷の体を水よりも小にするは〉気の散に非ざるなり〉気の内に収するなり〉            ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 7852: G0154L-014 火の体を薪よりも大にするは》気の聚に非ざるなり》気の外に発するなり》是の故に ここでは、天地を正しく把握するための「反観」が、逆に認識を誤らせています。解剖学においても こういう間違いが散見されますが、それは後世の研究者が正せばよいことです。 16108: 故に之を是非するに、天地を以てし、之を取捨するに、天地を以てす。 16109: G0016U-006 言いて失する有らば、晋の天地に肖ざるなり。 16110: G0016U-007 言いて得る有らば、 晋の天地と肖るなり。 とありますように、「氷の体を水よりも小にする」は、「言いて失する」であり、「晋の天地に肖ざる」 (晋。すすむ。梅園の名)であり、 一五四七一     此の書を讀む者は。天に觀て。而して天に合う有らば。則ち其れ取れ。 一五四七二-七三           天に觀て。而して天に合う有らば。則ち其れ舍(お)け。晉は焉ぞ敢て與らん。 にしたがって、訂正されなければならない記述であることになります。ただし、普通の液体は固体になる と密度があがって体積が小さくなりますから、固体になることによって体積が増えるのは、水の特異な性 質です。このあたりは、液体一般や、分子構造などの知識がなかった時代のことですから、条理学によっ てうまく説明しろというほうが無理です。また、自然現象の「計量」に関してはかなりルーズであった近 代以前の日本文化の一端を見ることもできそうです。 液体一般に関してであれば(したがって「甕中の儲水」ではなくなりますが)、上記の記述は正しいこと になります。 (参考:黄鶴校訂版-矢野弘の付箋あり-) 15471:   G0004U-007 此の書を読む者は、天に観て、而して合う有れば、則ち宜しく之を取れ。 15472-73: G0004U-008          天に観て、而して誤ち有れば、則ち宜しく之を舍け。晋は何ぞ與らん。                     (「晋は何ぞ與(あずか)らん」は「私がどうして関与しようか」の意。) 梅園の言い回しは、要するに、  天地に鑑みて、合致するのであれば、採用せよ。  天地に鑑みて、合致するのであれば、捨て置け。 ということです。「間違いであること」が「天地に合う」のであれば捨てよ、ということです。 よく理解せずに「梅園さん、間違っているよ」という人が、当時からたくさん居ましたからね。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 まず、初めに本の紹介です。 『人間の覚悟』五木寛之 新潮新書 287  \680 --------------------------------------------------------------------------------------- 第一章  時代は地獄に近づいている。資本主義が断末魔の叫びをあげ、あらゆることが下降していくなか、 「命の実感」が薄らいでいる。 --------------------------------------------------------------------------------------- 五木寛之氏からの重要なメッセージです。恐るべき時代の到来が予感されます。 最後に必要なのは、「覚悟」だけ・・・・ もっとも、先に断末魔の叫びをあげたのは、社会主義でした。社会主義が崩壊したあと マルクスの予言が的中するかたちで、資本主義が崩壊していきます。 しかし、シュペングラーは、『西欧の没落』(1918)で、すでにそのことを予言していました。 ---------------------------------------------------------------------------------------   世界都市は文明の象徴である。そこは自由な知性の容器であるが、「母なる大地」から  完全に離反し、あらゆる伝統的な文化形態から隔絶された、もっとも人造的な場所であって、  実用性と経済的な目的だけのために数学的に設計された巨像である。  ここに流通する貨幣は、現実的なものに いっさい制約されることのない形式的・抽象的・  知的な力であり、どのようなかたちであれ、文明を支配する。  ここに群集する人間は、故郷をもたない頭でっかちの流浪の民、すなわち文明人であり、  高層の賃貸住居のなかでみじめに眠る。彼らは 日常的な労働の知的緊張をスポーツ、快楽、  賭博という別の緊張によって解消する。   このように大地を離れ、極度に強化された知的生活からは、不妊の現象が生じる。  人口の減少が数百年にわたって続き、世界都市は廃墟となる。知性は、空洞化した民主主義  とともに破壊され、無制限の戦争をともなって文明は崩壊する。  経済が思想、宗教、政治を支配した末に、文明は二十一世紀で滅びる。(『西欧の没落』) --------------------------------------------------------------------------------------- リルケの『マルテの手記』、ニーチェの『ツァラツストラかく語りき』、ドストエフスキーの 『地下室の手記』、カフカの『変身』、サルトルの『存在と無』、・・・ どれも西欧人の 心から西欧の魂が死んでいく有様を、いや、西欧の魂の死んだ姿を描き出しています。そして、 西欧の魂は、とうとう復活しませんでした。 では、日本は死にはしなかったか? 夏目漱石が描いたのは、死にゆく日本ではなかったか? 太宰治が『人間失格』で描いた主人 公は、いま生きている我々の姿ではないか?  西欧の民主主義・自由主義というものは、いま生きている者の権利しか保障していないが故に、 最初から堕落しているのです。 死者の人間的権利を保障していないが故に堕落しているのです。未だ生を得ていない者の人間的 権利を保障していないが故に堕落しているのです。堕落しているが故に、断末魔を迎えるのです。 だから、西欧の没落は、必然なのです。 そしてこれから10年内外の内に、それがやってくるでしょう。我々は、生きているうちにそれを 目の当たりに見ることになるのです。 『玄語』は、すべての死者の人間的権利と、未だ生まれ得ざるものの人間的権利を当然のもの として保障しております。 親疎尊卑図(しんそそんぴず。疎は代用文字) http://www.coara.or.jp/~baika/kaisetu/120abzu.html この図が意味するものは、自我の「根」roots です。この「根」の上に立つ幹として、「己」が あります。この図は、どこまでも平行移動できます。すべての自己に於いて、この関係が成立し ます。戦後の日本の繁栄は、このような絆をバラバラに切断することによって得られたものであ り、それが故に、いま、企業から解雇された人たちに帰るところがないのです。 日本が自らの力で復活するとすれば、それは自国の歴史から、こんにちの日本を反省し、こんにち の日本を乗り越える道を学ぶ意外にありません。 また、日本が世界に対して真に何ごとかを貢献できるとするならば、それは、日本の歴史から世界 的普遍性を持った叡智を読み取り、そこから世界を再構築する新たなグランドデザインを創り出し、 それを世界に向けて提示することです。それが根本になければなりません。 三枝博音が『三浦梅園の哲学』で世に問うたのは、そのことでした。彼は、その序においてこう書 いています。 ---------------------------------------------------------------------------------------   こうした時代に於て、日本が生んだ哲学思想は、日本民族に対して如何なる敬愛を捧げ、更に  人類の究極の文化に対して如何なる歴史の理論を提出しようとしているのであろうか。私はその  ような日本の哲学思想の最高の表現の一つを、梅園の哲学説の内に見出すことが出来ると考える。  真理はどの国のどの民族の内の思想家が闡明してくれても人はこれを喜んで受容し人類共通の思  想財とせねばならない。けれども我が民族の中にその真理の闡明者を見出すということは、私た  ちの限りなき歓びでなければならない。この種の歓びの感受は、真理の科学性に翳(かげ)を投  げるものではなく、人類の掲げる「理」のための巨火にあらたに薪を投ずるものでなくてはなら  ない。私は梅園の哲学の意義をこのように理解したのである。 ---------------------------------------------------------------------------------------   また、序論の五において、こう書いています。 ---------------------------------------------------------------------------------------   そして人は必ずや、梅園の哲学を目してフォルマリスムス(形式論)として批評するであろう。  或る一定の方を踏襲して思想を表出するという点では、凡そ世界のうちに『玄語』に比せられる  ものはないかも知れない。しかし、徹底したこのフォルマリスムスの中に、(私たちはそれを砂  にたとえ石にたとえることができるが、)燦爛たる思索の金を見出すのである。『玄語』はその  点で無類の書であるといわねばならない。更に或る人々は云う、『玄語』のフォルマリスムスに  は堪えることができる、しかし、自然科学的に粗硬な且つ旧い知識に拠ってなされる類比の追求  には堪えることができない、と。この批評も又土砂を見て鉱石を見ない類であるといわねばなら  ない。『玄語』は今日の自然科学の試みる分類が一義決定的なものでないことを反省せしめるの  みでなく、自然に対する『玄語』の素朴な洞察の中に、やがて将来の科学者が取り上げるであろ  う示唆の貴重なるものを、私たちに示すのである。私たちは、ルクレチウスが今日もまだ自然科  学者たちに反省の資を提供していることを思い起こしてみよう。 --------------------------------------------------------------------------------------- そして、また、『玄語』写真版に就いて の中で、次のように述べています。 ---------------------------------------------------------------------------------------   ・・・安永四年本には、判読できないほどの細かい書き入れが入っていて、和訳(訓読版。北  林注)『玄語』の読めない読者をも考えねばならぬこの書としては、清書本(版下本のこと。北  林注)をとることが良いことだと思慮したのである。 --------------------------------------------------------------------------------------- 「和訳『玄語』の読めない読者」とは、日本人以外の外国の研究者のことです。これは私がインタ ーネットで海外版『玄語』を作ったのと同じ目的であり、研究を国際化しようと企図していること においては同じであります。 三枝博音を批判することはたやすいことです。読まずに悪口を言えばよいのですから。しかし、彼 を正しく理解し、彼を超えることはたやすいことではありません。 70年前においては、三枝の試みから梅園=和製ヘーゲル説や、『玄語』を日本の唯物論哲学の嚆矢 とする解釈が広く旧ソビエト連邦にまで波及したのですが、それから70年後の今日においては、 まったく新たな方向での展開が為されねばなりません。 それは、『玄語』を地球生態系の論理モデルとする見方であり、地球生態系を基準とした新たな文明 をデザインすることです。そのモデルは、梅園を生んだ江戸時代にあります。すでに遅きに失した感 がありますが、それでもそれを行わねばなりません。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 7445:  月と辰とは〉天の露なり〉 (露。つゆ) 7446: G0149U-009 火と雷とは》地の星なり》 これも梅園的発想ですね。 以前、水を入れた小さな円筒を高速で回転させる実験を見たことがあります。水と円筒の上端は 数センチくらい空いていたと思います。 回転数が上がると、水は円筒から出て飛び散ります。このようすを高速度カメラで撮影して スローモーションで再生すると、銀河と同じかたちになります。 梅園ならば、  # 水の円筒の回転するより飛散するは、銀河とその理を同じくす。    大小は形なるのみ。理に逆らわず。 とでも書きそうです。 *********************************************************************************** 【三浦梅園資料館 ほか 各位様】                                      北林達也 安永四年本「例旨」の最後に、次のように書かれています。 ○宝暦癸酉の歳。晉 年三十一にして始めて此の艸有り。繼いで贅敢の二語有り。贅は宝暦丙子に始まり。癸未に  至りて、八たび年を踰え、十たび稿を換えて今の本に至る。凡そ七冊なり。敢は宝暦庚辰に始まり。癸未に至り  て、四たび年を踰え、四たび稿を換ゆ。今の本に至りて、一冊と爲す。今茲、門人之を梓に上す。此の語は癸酉  に始まり、明和乙酉に至りて、換稿十五たび。竟に大いに??たるを覺え、盡く舊稿を棄て、新たに艸を起す。  四年を越えて戊子に至り、三たび艸を換え、稍や安きが若し。休すること一年。再び之を思うに、天地に於て、  大いに合せず。庚寅の冬、又た舊稿を棄てて、此の稿を起す。又た六年を經て、今茲乙未、五たび換えて纔に此  の稿を得たり。四冊七本、例旨を併せて凡そ八本なり。?年二十三。換稿も亦た二十三。物は大にして事は衆し。  犬馬の歯、既に半百を過ぐ。鬢髪??、繼いで心胸の病を以てす。知らず天は之に年を假し、將に其の業を卒わ  しめんとするか。將に其の志を奪わんとするか。是に於てか感無きこと能わず。書して以て佗日を竢(ま)つ。  安永四年端午識す。 三枝博音の『三浦梅園の哲学』160頁に  それで、『玄語』の成立を知るには、右の文の(北林注:上の文のこと)終わりのところに「以て佗日を竢つ」 とあるが、この他日、すなはち安永四年以後の『玄語』のことも考えてみねばならないが、暦年二十三、換稿二十 三とあるその歴史を知ることが何よりも必要である。・・・(略)・・・。しかし、幸にも三浦家には『玄語』の 書き換への原稿と見られるものが、断片大小合はせて約六十も保存されている。いまこれを梅園が記してゐる換稿 の歴史と照らし合はせて見ると、私の研究では今のところ實に困惑せざるを得ないのである。この換稿史を出来る だけ精密に記述することは、私は他日を期するより外はない。 と書かれています。 この作業を、独力で、梅園の全部の執筆物に対して行われたのが、田口正治博士です。私は、岩波日本思想大系 の田口先生の校訂版を、それが版下本(つまり三浦黄鶴改竄版)の翻刻であるという理由で否定していますが、 私が、『玄語』の最終稿本に特化して自分の作業を遂行できるのは、他の作業がほぼ、終了しているからであり ます。 『三浦梅園の研究』田口正治 創文社(1978) にその長年の研究が記録されております。書誌学的研究は、田口正治博士が、独力でほとんど完遂しております。 研究には、このように、人から人への継続が必要であり、三浦梅園のような巨人の業績となりますと、ほとんど 生涯をついやす覚悟がなければ、やり遂げることは出来ません。 あれこれやっているうちのひとつに三浦梅園があるというような人に、梅園の姿が見えるはずがありません。 あれこれ登っている山のひとつにエベレストがあります、なんてわけにはいかないのと同じです。 梅園自身が登り切れずに途中で死んでしまったのが、『玄語』なのですから・・・ 参考 『三浦梅園資料集』解説 http://www.geocities.jp/goromaru134/goromaru2/kaisetu1.html


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